46話 女性の在家信者で「布施第一」 ・・・・ 鹿子母(ミガーラマーター)
第4部 ブッダをめぐる人々
第4章 ヴィーサーカー信女
46話 女性の在家信者で「布施第一」 ・・・・ 鹿子母(ミガーラマーター)
覚者・ゴータマの在世当時、アンガ国(訳注:マガダ国の東隣り、当時の十六大国の一つ)のバッディヤ市に、過去世で大きな功徳を積んだ五人の注目される人たちが住んでいた。メンダカ長者と、妻のチャンダパドゥマー、息子ダナンジャヤ、息子の妻スマナデーヴィー、そして下僕のプッタである。かれらすべて、功徳となる同じ行為を過去世でわかちあった。そしてその果報として、かれらすべて、奇蹟のような功徳を現世で得たのである。わかちあった気高い行為の分け前を受けて、かれらは連続する輪廻のなかで転生のさまよいを通して一つのきずなを結んでいった。
ヴィサーカーのこども時代
なみはずれて非凡なこの一家のなかに、息子のダナンジャヤと、その妻スマナデーヴィーには、ひとりの娘がいた。名をヴィサーカーといったが、これまた過去世の功徳をたっぷり受け継いでいた。彼女の過去世で覚者・パドゥムッタラ(蓮華上佛陀)の在世当時、未来のヴィサーカーは、ハンサヴァティー市の裕福な家庭に生まれた。ある折、彼女が世尊の法話を聴いていたとき、在家のある女性信者が世尊によって、「布施第一」に指名されたのを彼女は見たのである。それに触発されて、彼女は覚者・パドゥムッタラの足もとで、未来にはブッダと僧団へ、布施第一の在家女性になりたい、という大望を表明した。そして、そのとき以降、十万劫のあいだ、彼女は神と人のもろもろの世界の輪廻転生を通して、さまよったのであった。その間、多くのブッダのもとで、彼女はさまざまな特別の供養を献げ、彼女の大望を実現するために必要な精神的完成へ徳を積んでいったのである。
ヴィサーカーが七歳になったある日、世尊がたいへん多くの比丘をともなって彼女の生地バッディヤ市に到着された。世尊が市に来られた、という知らせは、ただちにメンダカ長者の耳に入った。そこで長者は愛する孫娘を呼びに行かせ、このように告げた。
「ヴィサーカーよ、これは、おまえにとって喜ばしい日だ。わしにとっても喜ばしい。あの尊師が、われらの市に到着されたのだよ。おまえの五百人の侍女、五百人の下女といっしょに、五百台の車に乗って行きなさい! 世尊をお迎えに、おまえは出かけなさい」
ヴィサーカーは祖父の勧めに従った。従者たちといっしょに五百台の車に乗って出かけた。そして、ある一定の距離まで来たとき、車から降り、歩いて世尊のもとへ行った。世尊に礼拝して適切なところに敬意をもって坐り、世尊が説かれる法話を注意深く聴いた。幼いヴィサーカーはとても頭がよく、徳もたいへん高く積んでいたので、法話の終わりには彼女と侍女五百人は、預流果のさとりに達した。メンダカ長者と、その妻も、息子も、息子の妻も、そして下僕もまた、やってきて法話を聴き、かれら全員、預流果のさとりを確立した。そこでメンダカ長者は、世尊と弟子たちを自宅へ、翌朝の托鉢食に招待し、世尊がバッディヤ市に滞在されているあいだ、多大な供物を献げた。
仏教の熱心な信者であるビンビサーラ王が支配するマガダ国の勢力範囲内には、メンダカ長者のほかに、無尽蔵の財産をもつ長者が四人いた。すなわちジョーティカ、ジャティラ、プンナカ、カーカヴァリヤの四人である。隣国に莫大な財産持ちの長者が五人もいて、自国にはそのような長者がいない、と知って、コーサラ国のパセーナディ王は、ビンビサーラ王にそのような長者を送ってくるように、と求めた。マガダ国のビンビサーラ王とコーサラ国のパセーナディ王は友人であり、互いに妹の夫であったからである。
ビンビサーラ王はこの問題について大臣たちと相談し、その結果、パセーナディ王のもとめにそのまま応じることはできない、という結論に達した。しかしながら、パセーナディ王の意向を満足させるために、五人の長者の息子のひとりを送る、ということでまとまった。そこで、ビンビサーラ王は、メンダカ長者の息子ダナンジャヤに、コーサラ国へ移り住むように、と求めた。それに応じてダナンジャヤは家族をともなってバッディヤ市からコーサラ国へ引っ越した。その引っ越しの途上、ダナンジャヤは、ひとの住まいとして落ちつくのにふさわしい土地に着いた。広さも家族が住むには十分で、コーサラ国の首都サーヴァッティからわずか七マイル(11.2㌔)の近さだった。パセーナディ王の同意を得たうえで、ダナンジャヤはその地に新しい市をつくった。そして、それ以来、入植者の選んだこの土地は、サーケータ市と呼ばれるようになった。
ヴィサーカーは、こども時代を両親とともにサーケータ市で過ごした。ヴィサーカーは世尊をたいへん崇敬し、しばしば比丘たちを托鉢食に、そして聖なる真理を説法するように、招いた。彼女は「五種類の美しさ(パンチャ カリヤーナーニ)」に恵まれていた。すなわち、髪の美しさ(ケーサ カリヤーナ)、くちびるの美しさ(マンサ カリヤーナ)、歯の美しさ(アッティ カリヤーナ)、肌の美しさ(チャヴィ カリヤーナ)、若さの美しさ(ヴァヤ カリヤーナ)、である。
結婚式
サーヴァッティに、裕福な家の息子でプンナワッダナという者がいて、成人していた。父はミガーラで、同等の家柄の家から妻をもらうように、と息子に勧めていた。しかし、プンナワッダナは「五種類の美しさ」に恵まれた女としか結婚しない、と言い張った。父のミガーラは息子の言い分をきくほかなかった。ともあれ、ミガーラはバラモンの一団に命じ、国中探してそのような娘をみつけてくるように、と申しわたした。バラモンたちは国中の町や村を旅して念入りに探し、命じられた任務を実行した。だが、「五種類の美しさ」に恵まれた娘をひとりもみつけることができなかった。そこで、かれらは、サーヴァッティに戻ろう、と決めた。
帰りの旅の途上、かれらがサーケータ市に到着すると、祭りが催されていた。ヴィサーカーはそのころ十五、六歳ぐらいで、みんな同じ年ごろの侍女五百人に付き添われ、水浴するために川へ歩いていた。ちょうどそのとき、不意に雷雨が襲った。侍女五百人のすべてが、あわてふためいて走り出し、雨宿りの場所をさがして、ぶざまに逃げまどった。一方、バラモンたちは、彼女たちに注目して、じっくり見ていたのだが、見込みがありそうな娘は見つからなかった。しかしそのとき、ヴィサーカーを見たのである。走って逃げまどう娘たちの後ろに、とても気品のある様子で、ふつうの速さで歩いていた。降りしきる雨を気にするでもなく、雨宿りの場所に着いた。服や飾りはびしょぬれである。バラモンたちはヴィサーカーの姿を見たとき、そのしとやかなものごしが、すばらしく印象的であった。かれらはただちに、彼女の美しさの特徴こそ、特命を与えた主人の息子の期待にぴったりかなうものだ、と見極めたのだった。しかしまだ一つ、見定められないものがあった。彼女の歯である。
この特徴を知るために、バラモンたちはヴィサーカーに近寄り、会話をはじめた。
「かわいいおじょうさん、あなたはまるで年配のご婦人みたいに、優雅に歩いていらっしゃいますね」
「長老さま、どうしてそんなことをおっしゃるのですか?」
「かわいいおじょうさん、あなたのお連れの娘さんたちは、濡れないようにと、急いで雨宿りの場所に走って行きました。でも、あなたはここへ、ふつうの速さで歩いて来られた。服がびしょぬれになるのに、あなたは激しい雨を気にもしなかった。もし、象か馬かがあなたを追いかけてきても、同じようにされますか?」
ヴィサーカーが答えた。
「長老さま、もし、わたしがそうしようと思えば、あの娘たちよりずっと速く、わたしは走れます。でも、そうするのを避けたのです。長老さま、急いで走るのが似つかわしくないものが四つあります。
まず一番目に、(王位に就いたばかりの王さま(アビシッタラージャー))です。あらゆる宝石類をつけて、腰に巻いて、王宮の庭を走られる、としましょう。もし、そうすると、王さまは確実に非難されます。『どうしてこの王さまは民間の人みたいに走るのか?』と。まさに王さまは品よく歩くのが似合っているのです。
二番目に、派手に飾り立てた立派な象(吉祥象(マンガラハッティー))が走るのは似合いません。象本来の自然な品のよさで歩くべきです。
三番目に、(出家者(パッバジタ))が遍歴遊行して走りまわることです。もし、かれがそうしたら、非難されるでしょう。『なぜ、この行者は、ふつうの在家者のように走りまわるのか?』と。まさに出家者は品よく歩くのが似合っているのです。
四番目に、(淑女(イッティー))が走りまわるのは似合いません。もし、彼女がそうしたら、非難されるでしょう。『なぜ、この女は男みたいに走りまわるのか?』と。さらに、長老さま、結婚前の女としてわたしは、自分をつつしまなければなりません。ちょうど商品を売りに出しているようなものでございますから、わたしに傷がついたり、役に立たなくなったりするかもしれませんので。そんなわけで、わたしは雨降りでも走らなかったのです」
バラモンたちはヴィサーカーの答えをきいて喜び、ぴったりの花嫁がみつかった、とうなずきあった。そこで、彼女の父親のもとへ行き、かれらの主人の息子プンナワッダナとの結婚を依頼した。父親のダナンジャヤは婚約に同意した。そして、それにしたがって、結婚の式典の取り決めも行われた。このあとすぐに、ミガーラ長者と息子のプンナワッダナ、そして家族全員は、花嫁を迎えに行った。コーサラ国のパセーナディ王はこの話を耳にして、ミガーラ長者らといっしょにサーケータ市へ向かった。
花婿の家族一行が王とともにサーケータ市に到着すると、花嫁の父ダナンジャヤは、にぎやかに、はなやかに、もてなし、市内全体に、お祭り気分がみなぎった。
結婚式の当日、ヴィサーカーは、「大蔓草紋様のひとそろいの宝飾(マハーラターパサーダナ)」(訳注:宝石や貴金属をあしらって首、胸、腕などに掛ける装身具。瓔珞)という非常に美しい婚礼衣装と、巨額の持参金を父ダナンジャヤから受け取った。ダナンジャヤはまた、八人の内密の相談役を任命した。どんな苦情でも、ていねいに調査し、娘に持ち上がるかもしれない、どんな争いごとも収めるためである。それから、娘がサーヴァッティの花婿の両親の家に、まさに発とうとしているそのとき、ダナンジャヤは、妻としての教えを、次のようにいって、与えた。
「愛する娘よ、よき妻として、おまえは、夫に忠実に仕えなければならない。そして、家事をちゃんとやっていかなければならない。この妻女の十誡をよくわきまえ、これに準じて実践すべきである。
(1)家内の火を外に持ち出してはならない。
(2)家の外から火を家内に持ち込んではならない。
(3)ものをくれる人にだけ、ものを与えるべきである。
(4)ものをくれない人に、ものを与えてはならない。
(5)ものをくれる人にも、ものをくれない人にも、与えるべきである。
(6)楽しそうに坐るべきである。
(7)楽しそうに食べるべきである。
(8)楽しそうに眠るべきである。
(9)火に仕えるべきである。
(10)家内の神々を敬うべきである。
ようやく、ヴィサーカーの一行は、サーヴァッティに到着した。たくさんの人びとが花嫁の着ている豪華な衣装を見たがっているであろう、ということに配慮して、比類のない、とびきり上等の婚礼衣装がみんなに見えるように、と彼女は車の中で立ち上がった。
サーヴァッティに到着した当初から、ヴィサーカーには、あらゆる階層の人びとから、その社会的地位や能力に応じて、さまざまの贈り物が雨あられと殺到した。しかし、彼女がとても親切で寛大であるために、サーヴァッティ市民の人びとに分け与え、おかげでどの家でも贈り物を受け取った。このように彼女が夫の家に嫁いできた最初の日から、サーヴァッティ市民は慈善にひたったのである。かくして彼女は、市民すべてを自分の親族のようにもてなした。
それから、婚家に到着した最初の日の夜、彼女の純血種の雌馬が、子馬のお産で難産になっている、と耳にした。それは真夜中のことだったが、下女にたいまつを持たせて、彼女は厩舎へ急いだ。彼女はそこで、最大の気配りと思いやりで、子馬のお産の世話をしてあげた。また、生まれた子馬をお湯の中に入れ、子馬のからだに油を塗ってあげた。母子ともに、しっかり、ていねいに世話して安心させ、母馬、子馬ともに安全で良好な状態にしてあげてから、彼女は自室に戻った。
ヴィサーカーへの非難
ミガーラ長者の家では結婚披露宴も開かれ、それが七日間続いた。裸行者僧団の忠実な信者であった長者は、ジェータヴァナ僧院(祇園精舎)に滞在されている世尊を無視していた。その代わり、裸行者たちを家中にいっぱい、托鉢食に招待していた。長者は裸行者たちに、深い敬意をもってもてなし、ぜいたくな食べ物をふるまっていた。そのとき、長者が新婚で嫁いできたばかりのヴィサーカーを呼んで、こういったのである。
「おいで、ここへ来て、阿羅漢たちに礼拝しなさい!」
ヴィサーカーは「阿羅漢たち」という言葉をきいて、比丘にお目にかかれる、と喜び勇んで、ホールへ行った。しかし、ヴィサーカーのような洗練された淑女にとっては、まったく品位を欠いて見苦しい、としか見えない裸行者たちに、衝撃を受けたのだった。彼女はとても失望して、こう思った。
「こんな恥知らずの者たちを『阿羅漢たち』と呼ぶのは、とんでもないことだわ。どうして、お舅さまは、かれらに礼拝しなさい、なんていえるのかしら?」
彼女は嫌悪感をあらわに示して「まぁ! なんてこと!」と、ため息をつき、そしてただちに踵を返して、かれらに礼拝することなく、自室に戻ったのである。
ヴィサーカーの態度を見て、裸行者たちは気分を害し、ミガーラに食ってかかった。
「長者よ、なんでもっとましな嫁御をもらわなかったんですか? どうして、ゴータマ行者の女性の信者を、この家に入れたんですか? ただちにこの家から、あの女の悪魔を追い出しなさい!」
しかし、ミガーラは、そんな苦言を心に留めることはできない、と考えた。というのも、ヴィサーカーが上流階級の家の出身だったからである。そこで、かなり苦心して、師匠たちをなだめすかし、こういった。
「師匠のみなさま方、若い者は向こう見ずで、知っていても知らなくても何かやりたがるものです。どうかちょっとご辛抱いただけませんか?」
また、別の折、ミガーラが蜂蜜を混ぜたぜいたくな米粥を金の鉢で食べていて、ヴィサーカーが煽いでいると、ひとりの比丘が托鉢に回ってきて、ミガーラの家の外に立った。ヴィサーカーは脇によけたのでミガーラは比丘を見ることができて、托鉢に布施することができたはずであった。しかし、比丘がすっかり見えていたのに、ミガーラは食事を続行し、比丘が立っていることに気づかないふりをした。このありさまを見てとって、ヴィサーカーは比丘に、丁重に告げた。
「とりあわないでくださいませ、尊者さま。お舅さまは古い不浄な食べ物を食べているのです」
ヴィサーカーの言葉をきいて、ミガーラは誤解し、急に怒りだした。たちまち、黄金の鉢から手をはなし、怒って従者にどなった。
「この乳粥を持って行け! ヴィサーカーをこの家から追い出せ! 見よ、わしがこのめでたい乳粥を、わしのこのめでたい家で食べていると、ヴィサーカーは、わしが不潔な汚物を食べている、とぬかしたのだ!」
しかし、すべての従者はヴィサーカー自身がつれてきた者たちで、かれら全員、彼女の思いやりのある態度を敬愛していた。彼女に乱暴なことをしたりするどころか、その言葉にあえて従わぬような不届き者は、誰もいなかった。かくして、かれらはミガーラの命令の実行を拒絶したのである。
ヴィサーカーはそこで、もの静かに、うやうやしく、こう答えた。
「お舅さま、わたしはこの家を、お舅さまの不当なご命令と、不確かな理由で去りたくはございません。わたしはお舅さまに、どこかの川の浅瀬から、水くみの奴隷女のようにつれてこられたのではありません。両親が健在の良家の娘というものは、この手の不法な命令には従わないものです。まさしく、この理由のために、わたしの父は、わたしが実家から出たとき、相談役に、と八人を指命して、かれらにわたしのことを、このように言って委ねたのです。『わが娘に、万一、何か問題が起きたとき、あなたたちがその件を精査して、問題をおさめてください』と。この八人は、わたしの安全確保についての父の顧問団です。わたしの件をかれらに知らせて、わたしに過失があるのか、それとも潔白なのか、精査させてくださいませんか?」
ミガーラは彼女のもっともな願いを聞き入れ、八人の相談役を呼び出した。それから、かれらに、こう告げた。
「お祭りのころ、わしが座って、蜂蜜を混ぜたぜいたくな米粥を金の鉢で食べていると、この娘は、わしが不潔な汚物を食べている、とぬかしおった。この過失で、わしはこの家から彼女を追い出すのだ」
相談役たちはヴィサーカーにきいた。
「娘さん、あなたはお舅さんが申し立てられたようなことをいったんですか?」
ヴィサーカーは、次のように説明した。
「長老さま方、わたしがいった、というとおりの、そのままではございません。事実は、お舅さまが蜂蜜を混ぜたぜいたくな米粥を金の鉢で食べていると、ひとりの比丘が托鉢をもとめて家の戸口に立ったのです。お舅さまがその比丘を完全に無視したのをわたしが見まして、比丘のもとへ、わたしが行き、『とりあわないでくださいませ、尊者さま。お舅さまは古い不浄な食べ物を食べているのです』と、申し上げたのです。こう申し上げることで、お舅さまは今生では何も功徳ある善行為をされていなくて、過去世の業の結果のみで生きている、といいたかったのでございます。さて、長老さま方、この件で何がわたしの過失でしょうか?」
八人の相談役の結論は「長者よ、ヴィサーカーの説明はもっともです。彼女にこの件では過失はありません。あなたは、なぜ怒られているんですか?」
ミガーラが答えた。
「そのようですな、みなさん方」
しかしながら、かれはヴィサーカーをほかの件で非難しつづけた。
「しかし、みなさん方、この娘は、この家に嫁いだ、まさに最初の夜、新郎を無視したのです。その日の真夜中に、彼女は従者たちといっしょに家の裏側へ行ったのです」
相談役たちがきいた。
「愛する娘さん、あなたは申し立てのように、新郎を無視したのですか?」
ヴィサーカーが説明した。
「長老さま方、わたしはどこにも行ってはおりません。事実は、わたしの純血種の雌馬が真夜中に厩舎で、子馬のお産で難産になっていたので、世話をしてあげたのです。そうするのはわたしの義務だと思ったのです。下女にたいまつを持たせて、子馬のお産の世話をしてあげました。では、わたしの過失とは何なのでしょうか?」
相談役たちは、ミガーラに告げた。
「長者よ、われらの嫁御(よめ ご)は義務に忠実で、あなたの下女たちでさえできないことをやってのけた。あなたのために、とのみ、彼女はやったのでしょう。それをもってあなたは過失だと見られますか?」
ミガーラは、彼女が二番目の件でも無実である、と認めた。しかしまた、かれは彼女の父ダナンジャヤが、彼女が実家から出立する日に与えた「妻女の十誡」について文句をつけた。たとえばダナンジャヤは、このように教え誡(いまし)めている。「家内の火を外に持ち出してはならない」と。そこでミガーラは、こういった。
「お隣にさえ火をあげないで生活することができますかね?」
この文句をきいて、ヴィサーカーは「妻女の十誡」をこと細かに説明して完全に満足してもらうには、ちょうどよい機会、とみて話し始めた。
「わたしの父は、この『妻女の十誡』を通常の意味で与えてくれたのではありません。十誡のそれぞれは以下のように理解するべきなのです。
(1)家内の火を外に持ち出してはならない。
→妻は、夫や舅(義父)の内輪の事情(火遊び・色事)を外部に漏らしてはならない。家庭内のいさかいは、周囲の人びとだけにでなく、どこにも伝えてはならない。
(2)家の外から火を家内に持ち込んではならない。
→妻たる者は、他家の人から自分の家にいわれた非難を家庭内の他の者に伝えてはならない。
(3)ものをくれる人にだけ、ものを与えるべきである。
→ものを借りて、後で返してくれる人にだけ、貸してあげるべきである。
(4)ものをくれない人に、ものを与えてはならない。
→ものを借りても、返さない人には、貸してはならない。
(5)ものをくれる人にも、ものをくれない人にも、与えるべきである。
→貧乏な親族や友人には、たとえ返礼がなくても、援助すべきである。
(6)楽しそうに坐るべきである。
→妻たる者は、妻にふさわしいように坐るべきである。舅や夫を見かけたら、立ったままでいるべきで、坐ってはならない。
(7)楽しそうに食べるべきである。
→自分が食べる前に、妻たる者は、先んじて舅や夫が給仕されているかを注意すべきである。また、使用人にも気を配って注意すべきである。
(8)楽しそうに眠るべきである。
→自分が眠る前に、妻たる者は、先んじてすべて戸締まりができているか、家具備品は心配ないか、使用人たちはちゃんとすべきことをしているか、舅は寝ているか、注意すべきである。
(9)火に仕えるべきである。
→夫の両親と夫は、炎上する火か、あるいは龍(ナーガ)の王に見なすべきで、いつでも丁重に扱い、敬意を払うべきである。
(10)家内の神々を敬うべきである。
→このような言葉で父は、わたしが家庭の主婦となるときに、わたしに教え誡めましたが、わが家の戸口に立っている比丘に対して、わたしは托鉢食を布施すべきです。布施してさしあげた後にのみ、自分が食べるべきなのです」
この後すぐ、相談役たちはミガーラに、当てこするような辛口の感想を述べた。
「長者よ、あなたは、好んでそうしたくて、托鉢食をもとめて托鉢に来た比丘たちを無視されたようですな」
これをきいて、ミガーラは坐って黙りこみ、顔を伏せ、ひとことも言い返さなかった。
身の潔白が証明されてヴィサーカーは、八人の相談役に、こういった。
「長老さま方、わたしを追い出す、というお舅さまの性急なご命令に従うのは賢明なことだとは、わたしはみなしませんでした。なぜなら、父がみなさまの保護にわたしを委ね、わたしにかかわる問題の解決を任せたからでございます。そしていま、わたしに過失はない、と明らかになりました。わたしは喜んでこの家を出て行きます」
ミガーラは、ただちにヴィサーカーに、自分の誤りをわびた。
「愛する娘よ、わしは無謀だった。許しておくれ!」
ヴィサーカーは、これを好機とみて、舅に対して、こう言った。
「お舅さま、わたしがお許しできるものは、ただちに許します。そして、お舅さま、わたしはブッダの教えに絶対の、不動の確信をもっている、ということをご承知おきくださいませ。わたしは、世尊と弟子の比丘たちが歓迎されない場所にいることはできないのです。わたしは、比丘たちを家に招待することが許され、托鉢食や、さまざまな供物を献げることが完全に自由にできるなら、いることができます。さもなければ、家を去ります」
舅のミガーラは、即座に答えた。
「愛する娘よ、わしはおまえに、世尊と弟子の比丘たちを招待すること、宗教活動をすること、の完全な自由を与える」
ミガーラの帰依
その後、ときを移さずヴィサーカーは、世尊と弟子の比丘たちを翌日の托鉢食のために家へ招待した。そして次の日、食事の時間がきて、世尊は衣をまとい、鉢と外衣をもち、弟子の比丘たちをともなって、彼女の家に行かれた。そのころ世尊がミガーラの家に訪れるのを知った裸行者たちは、家を出て、その周辺に坐った。
世尊に托鉢食をさしあげ、奉献の水を注いでから、ヴィサーカーは舅に、世尊と弟子の比丘たちへの食事はすべて整った、と伝えた。世尊へのお世話をいっしょに直接しましょう、と呼びかけて招いたのだが、ミガーラは裸行者たちの指示を守って彼女に、こういった。
「わが愛する娘よ、みずから世尊をお世話しなさい」
食事が終わったときヴィサーカーは舅に、こっちに来て世尊の法話を聴くように、と知らせた。ヴィサーカーは舅が「もし娘の招きをまた断ったら、それはよくないだろう」と考えて、二度目の誘いを断らないはず、と感じていたのである。ミガーラも、世尊の法話を聴きたい、という内心の衝動があり、ホールへ向かった。しかしながら、裸行者たちは「万一、あなたがゴータマ行者の法話をきくというのなら、目につかないように隠れてききなさい」と注文をつけた。礼儀正しくするためにだけ、ほんのわずかミガーラは姿を見せてから、法話をきいているあいだ、カーテンの陰に隠れていた。
しかしながら世尊の法話は、どんな聴衆にも、隠れていても、遠く離れていても、壁にさえぎられていても、世界の広がりすべてのすみずみでも、よくきこえるのだ。かくて世尊の言葉は、目には見えず隠れて坐っていても、かれを深く感動させ、法話の終わりには、ありのままの生存の究極の真理に参入して通達し、預流果のさとりを確立した。ひきつづいてかれはカーテンの幕を上げ、世尊のもとへ近寄り、足もとにひれ伏して、三宝(仏法僧)への帰依を表明した。世尊と義理の娘への圧倒的な感謝の思いにみたされ、世尊の御前で、かれはヴィサーカーを、こういって激賞した。
「愛する娘よ、きょうのこの日以降、わたしはそなたを、わが母のように尊敬するであろう」
このときから、ヴィサーカーは「ミガーラの母」(鹿子母(ミガーラマーター))と呼ばれるようになった。
翌日、ヴィサーカーはまた、世尊を食事の布施に招待した。その折、彼女の姑(義母)もまた、預流者(ソーターパンナ)になった。その日以来、全家族が世尊と世尊の僧団(比丘と比丘尼)の熱心な支援者となった。
そのときミガーラは、こう思った。
「わたしは、真の幸福と安心を与えてくれた義理の娘のヴィサーカーに、この感謝の思いを表したい。『大蔓草紋様のひとそろいの宝飾(マハーラターパサーダナ)』は、ふだん使いにはわずらわしい。昼夜の日常着るのにふさわしい、身体に合った服を与えてやろう」
それから、かれは「濃密な絹の美布(ガナマッタカ)」と呼ばれる装飾ドレスを十万金でつくらせ、ふだん着にさせた。この服のお披露目の日、ミガーラは彼女のために特別の式典を開催した。世尊と弟子たちを托鉢食の布施に招待し、彼女には十六の香水壜を使った香りのよい風呂に入らせて、身じたくさせたのである。
ブッダの八つの恩賜・・・ヴィサーカーの「八願」
ある折、世尊と比丘の僧団が、ヴィサーカーの食事献上の招待を彼女の家で受けたとき、彼女は世尊に、八つの願いを恩賜として与えてくださるように、と求めた。世尊は、完全者たる如来は恩賜をみたすことを超えて行ったのだ、と答えられた。彼女は、望んでいるのは許されることで、非難される余地のないことです、と申し上げた。世尊は、彼女に話をつづけさせ、彼女は八つの望みを、次のように述べた。
「尊師よ、わたしがご提供したいのは(1)雨浴衣(ヴァッシカサーティカ)をわたしの生きている限り僧団(サンガ)に、(2)来客の比丘に食事を、(3)旅に出られる比丘に食事を、(4)病気の比丘に食事を、(5)病気の比丘をお世話されている比丘に食事を、(6)病気の比丘に薬を、(7)米粥を定時に配給、(8)水浴衣(ウダカサーティカ)を比丘尼の僧団に、それぞれご提供したいのです」
そこで世尊は、どのような特別の理由で、これら八つの願いを恩賜として与えてほしい、ともとめているのか、きかれた。彼女はこと細かく説明した。
「尊師よ、衣を守るために、比丘の中には衣を脇に置いて、雨に濡れたままにされている方が見受けられます。それで、裸行者とまちがわれるのです。裸体は、尊師よ、不適切でございます。胸が悪くなり、嫌悪を感じさせます。この理由をもちまして、わたしは雨浴衣をご提供したいのです」
「尊師よ、新しく来られた比丘は、街の通りも、托鉢の行き先も、ご存じありません。旅の疲れにもかかわらず、それでも托鉢しなければなりません。この理由をもちまして、わたしは来客の比丘に食事をご提供したいのです」
「尊師よ、旅に出ようとされている比丘は、食べ物を探すために旅の一行にはぐれてしまうかもしれません。あるいは宿泊したいと思っている場所に着くのが遅くなってしまうかもしれません。それで、旅に疲れるかもしれません。この理由をもちまして、わたしは旅に出られる比丘に食事をご提供したいのです」
「尊師よ、病気の比丘は、とても苦しまれ、もし、ちゃんとした食事をしないと死んでしまうかもしれません。それゆえ、わたしは病気の比丘に食事を料理してさしあげたいのです」
「尊師よ、病気の比丘をお世話されている比丘は、自分のためと、病気の比丘のために、托鉢に行かなければなりません。それで、遅くなってしまいかねず、食事どきがすでに過ぎてしまうので、両比丘とも昼までに食事できなくなるかもしれません。それゆえ、わたしは看護の比丘に食事をご提供したいのです」
「尊師よ、病気の比丘が適当な薬を得られないとき、病気が悪化して、死んでしまうかもしれません。それゆえ、わたしは病気の比丘に薬をさしあげたいのです」
「尊師よ、早朝の米粥に関連して何らかのご利益がある、と聞いております。だから、わたしは米粥を僧団にさしあげたいのです」
「尊師よ、比丘尼たちが衣をつけずに水浴するのは適当ではございません。最近、そのようなことがありました。それゆえ、わたしは比丘尼たちに適当な水浴衣をさしあげたいのです」
そこで世尊は、尋ねられた。
「しかし、ヴィサーカーよ、そなた自身に何の利益があると期待して、如来に八つの恩賜をもとめるのか?」
ヴィサーカーは、念入りに考えぬいた巧みな答えを申しあげた。
「それにつきましては、尊師よ、さまざまな場所で雨季を過ごした比丘たちが、世尊にお目にかかるためにサーヴァッティに来るでしょう。かれらは世尊に近づいてきて、こう質問します。
『尊師よ、何々という比丘が死にました。かれの行き先はどこでしょうか? かれが再生した先は何でしょうか?』
世尊は、そのような者が預流果に達したのか、一来果か、不還果か、阿羅漢果か、話されるでしょう」
「わたしは比丘たちに近寄って、こう尋ねます。
『尊者さま方、亡くなった比丘は、サーヴァッティに来られたことがあったでしょうか?』
もし、かれらが、来たことがあった、と答えられると、わたしは、雨浴衣をその比丘がきっと使ったのだろう、と考えるでしょう。来客比丘のための食事、旅に出られる比丘への食事、病気の比丘への食事、病気の比丘を看護する比丘への食事、病気の比丘への薬、朝の米粥のいずれも、そうです」
「そのように想像したとき、わたしはうれしくなります。わたしがうれしいとき、わたしは幸せになります。わたしの心が幸せなとき、わたしの身は安らかになります。わたしの身が安らかになるとき、わたしは喜びを感じます。わたしが喜びを感じるとき、わたしの心は集中します。それは精神的なはたらきに成長をもたらし、精神力の成長をもたらし、そしてまた、覚りの要素の成長をもたらすでしょう。尊師よ、これがわたし自身の期待している利益で、それで如来に八つの恩賜をもとめるのです」
「善きかな、善きかな、ヴィサーカーよ。そなたがこのような利益を期待して正自覚者に八つの恩賜をもとめるのは善いことです。そなたに八つの恩賜を与えます」
プッバーラーマ僧院(東園)の建設
ヴィサーカーは幸運な女性である、とサーヴァッティにほどなく広く知れわたった。サーヴァッティの市民たちは、奉納式典があるときはいつでも彼女を招いた。ある日、ヴィサーカーは、そのような式典に出席後、お付きの者たちとジェータヴァナ僧院(祇園精舎)に向かった。彼女は豪華な「大蔓草紋様のひとそろいの宝飾(マハーラターパサーダナ)」ドレスで着飾っていた。僧院に着いて、この盛装のドレスを着て世尊にお目にかかるのはつつしみ深さに欠ける、と彼女は考えた。そこで僧院の入り口で下女にそれを預け、「濃密な絹の美布(ガナマッタカ)」ドレスに着替えた。
それから、彼女は世尊のもとへ行き、礼拝し、法話をきいた。その法話に大いに満足して、下女とともに講堂を去ったが、下女はヴィサーカーのドレスを持って行くのを忘れてしまった。在家信者たちのどんな忘れ物も保管するのはアーナンダ尊者の日常的な務めだった。ヴィサーカーのドレスを尊者がみつけ、世尊に知らせると、安全な場所に保管して持ち主に返すように、といわれた。
一方、彼女は僧院内のさまざまなところを回って、比丘や沙弥(訳注:比丘になる前の少年僧)らが必要な物を確かめた。さらに病気の比丘や沙弥らのもとを訪れて必要な看護をしてから、別の門を通って僧院を出た。そのとき彼女は、また「大蔓草紋様のひとそろいの宝飾」ドレスを着たくなり、下女に、持ってくるように、といった。それでやっと下女は忘れたことに気づき、「奥さま、ドレスを持ってくるのを忘れてしまいました」と、いったのである。
「それじゃ、取りに行って来なさい! でも、もしアーナンダ尊者が忘れ物を保管されていらっしゃるなら、そのドレスはもはや尊者にお布施した物とみなしてくださいませ、といいなさい」と、ヴィサーカーは下女にいった。
アーナンダ尊者はヴィサーカーの下女がやって来たのを見て、尊者は、忘れ物を受けとるように、といった。尊者が忘れ物を保管している、とわかって、下女はヴィサーカーにいわれたとおり、伝えた。それから、下女はヴィサーカーに、何が起きたか、報告した。
だが、そこでヴィサーカーは、アーナンダ尊者に保管してもらったままにしておくのは迷惑をかけることになる、と考えた。ドレスを売って、その代金で僧団(サンガ)に何か適当なものを布施しよう、と思ったのである。そのためにヴィサーカーは、ドレスを一頭の象の背中に掛けて展示して、宝飾業者が鑑定評価した値段の九クローレ十万(九千十万)金で公開セールに出した。しかし、その値段でドレスを買える者は誰もいなかったので、ヴィサーカーは自分が買うことにしたのである。
それからヴィサーカーは世尊のもとへ行き、そのお金で僧団(サンガ)に何か有益なことをしたい、と申し上げた。世尊は、僧院を建ててはどうか、と勧められた。彼女はそれをきいて、とても喜んだ。それゆえ、サーヴァッティ市の東門近くの土地を九クローレ(九千万)金で買い入れた。僧院建立(こんりゅう)がまもなく始まり、モッガラーナ尊者の監督のもとで行われた。完成まで九か月かかった。その僧院は、「ミガーラの母の講堂」(鹿子母(ミガーラマートゥ)講堂(パーサーダ))と呼ばれた。さらに東部公園にあったためプッバーラーマ(東園)僧院としても知られた。
僧院が完成したとき、ヴィサーカーは僧団(サンガ)に布施する記念式典を開いた。彼女はまた、世尊に雨安居を新しい広々とした僧院で過ごしていただくために、招待した。式典は四か月続き、土地代、建設費とは別に九クローレ費やした。ヴィサーカーが負担した布施は、総額二十七クローレ(二億七千万)金となった。アナータピンディカが建立して布施したジェータヴァナ僧院(祇園精舎)に、世尊がよく滞在されたのとまさしく同様に、プッバーラーマ僧院(東園)にも世尊はよく滞在され、少なくとも六回の雨季(雨安居)を過ごされている。
ヴィサーカーの質問
ヴィサーカーのひんぱんな訪問中、世尊が説かれた法話は数多くあるが、それらのうち主要なもののなかでは、布薩について述べているものが有名である。そのなかで世尊は聖者たちの布薩(ウポーサタ)について詳しく説かれている。こうした布薩(ウポーサタ)は、在家の熱心な信者も守るべきである。それは八斎戒(訳注:一昼夜の間、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒の五戒と、非時食、舞踏・歌謡・音楽・演劇の鑑賞と装身化粧、高く広い寝台の八つをはなれる)の遵守(じゅんしゅ)と、仏法僧の徳、そして神々と自分自身の徳について、随念することである。
また別の法話で、ヴィサーカーは世尊に、女がこの世と次の世で安心と幸福を得られる性質について尋ねた。世尊は、女性がこの世で安心と幸福を得られる四つの性質について、答えられた。
すなわち、家事をこなすこと、使用人をうまく扱うこと、夫を慈しむこと、財産を護ること、である。そして、以下の四つで、次の世で安心と幸福を得られる、とされた。すなわち、信(サッダー)を確立すること、戒(シーラ)(道徳)、捨(チャーガ)(寛大)、慧(パンニャー)である。
さらに別のとき、ヴィサーカーは世尊に、女が「優雅な神々」(可意衆天(マナーパカーイカー デーヴァー))へ生まれ変わるのに導いていく性質について尋ねた。世尊は、女性がもつべき八つの条件を詳しく説かれた。
夫に対して、夫の行いには関係なく、いつも愛想のよい、楽しい伴侶であること▽夫が大切にしている人たちや敬っている人たち、たとえば夫の両親や賢者らを尊敬して、もてなすこと▽家事にいそしみ、ちゃんとやること▽使用人をよく管理し、きちんと面倒をみて、かれらの健康と食べ物に配慮すること▽夫の財産を護り、浪費しないこと▽仏法僧に帰依すること▽五戒を守ること▽布施と節制を喜ぶこと-の八つである。
ヴィサーカーの勤勉さ
ヴィサーカーは、連日、自宅で、五百人の比丘に托鉢食を布施してさしあげるのを習慣にしていた。午後には世尊のもとを訪れ、説法をきいた後、僧院を巡って比丘や比丘尼に必要な物を調べ、食べ物、衣服、住まい、寝具、薬で不足しているものがないように配慮した。彼女は、ときにはスッピヤーという女性といっしょに行った。スッピヤーもまた、仏教の熱心な女性信者だった。
ヴィサーカーには息子十人と娘十人がいた。それぞれの子に同数のこどもができて、それは四代まで続いた。ヴィサーカー自身、驚くべき高齢の百二十歳まで生きたが、白髪は一本もなかった。生涯を通じて、見た目は十六歳の少女のようであった。亡くなる前、直系の二十人の子や孫に加えて孫は四百人、ひ孫は八千人いた。また、彼女の体力は象五頭分に匹敵する、と言われた。休むことなく活動ができて、大家族の面倒を見た。一度、王が、評判のヴィサーカーの力を試してみたくなって、一頭の大きな象を彼女に向けて放したことがあった。彼女の五百人の従者すべては恐れて逃げ去ったが、彼女は象の胴体を指二本でもの静かにつまみ、王の宮殿の庭に戻してしまったのである。
ヴィサーカーは、ブッダの教え(サーサナ)に関連したさまざまな活動で重要な役割をはたした。ときどき、彼女は世尊によって、比丘尼同士で起きた争いを鎮めるために代理を命じられた。いくつかの律(ヴィナヤ)は、彼女が関与して定められたものである。
彼女の品格ある行為、優雅なふるまい、洗練された物腰、礼儀正しい話しぶり、年長者への従順さと敬意、不幸な者たちへの同情、親切なもてなし、そして宗教的な熱意によって、彼女は、彼女を知る者すべての心を勝ち得た。
彼女は、世尊と比丘・比丘尼僧団の支援者として奉仕する女性の在家信者の中で第一である(布施第一の信女(ダーイカーナン アッガー))、と宣言されたのである。
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Episode 46 Visākhā, THE CHIEF BENEFACTRESS
In the time of the Buddha Gotama, in the City of Bhaddiya, the Kingdom of Aṅga, there lived five remarkable persons endowed with great past merits. They are the millionaire Meṇḍaka and his wife Candapadumā, his son Dhanañjaya and daughter-in-law Sumanadevī, and his servant Puṇṇā. They had all shared the same meritorious deed in their previous life, and as a result they all obtained miraculous merits in their present life. Their shared participation in that noble deed had become a bond uniting them in successive rounds of existence as they wandered through the rounds of rebirth.
The Childhood of Visākhā
In that extraordinary family, the son Dhanañjaya and his wife Sumanadevī had a daughter named Visākhā, who also inherited an abundance of past merits. In her earlier life, during the time of the Buddha Padumuttara, the future Visākhā was born into a rich family in the City of Haṁsavatī. On one occasion, when she was listening to a discourse by the Blessed One, she saw a lay woman disciple being designated by the Blessed One as the foremost in giving charity. Being inspired, she expressed her aspiration at the feet of the Buddha Padumuttara to become the chief benefactress of a Buddha and His Saṁgha in the future. And since that time onwards, for a hundred
thousand aeons, she wandered through the rounds of rebirth in the deva and human worlds. In between, she made various extraordinary offerings under many previous Buddhas, accumulating the spiritual perfections required for fulfilling her aspiration.
One day, when Visākhā was seven years of age, the Blessed One arrived in her birth place, Bhaddiya, accompanied by a great number of bhikkhus. The visit of the Blessed One to that city was immediately heard by Meṇḍaka. Then, he sent for her beloved granddaughter, saying: “Dear girl, this is an auspicious day for you and an auspicious day for me, for the Teacher has arrived in our city. Mount five hundred
carriages together with your five hundred female attendants and five hundred maid-servants! You should go out to welcome the Blessed One.”
Visākhā obeyed her grandfather’s advices. She departed together with her attendants in five hundred carriages. And when she had reached a certain distance, she dismounted from her carriage and went on foot to the Blessed One. Having paid obeisance to Him, she sat respectfully at a suitable place and listened to the Dhamma preached by the Blessed One attentively. The young Visākhā was so sharp in knowledge and far advanced in virtues that at the end of the discourse, she and all her five hundred female attendants attained the Fruition of Stream-Entry. Meṇḍaka—along with his wife, his son, daughter-in-law, and his slave, too—came and listened to the Dhamma, and all were established in the Fruition of Stream-Entry. Meṇḍaka then invited the Blessed One and His disciples to accept alms-food at his house for the next morning and made great offerings as long as the Blessed One stayed at Bhaddiya.
Besides the millionaire Meṇḍaka, within the domain of the Kingdom of Magadha, which was ruled by the devout King Bimbisāra, there were four other householders possessing inexhaustible wealth, namely: Jotika, Jaṭila, Puṇṇaka and Kākavaliya. Having heard that in the neighbouring kingdom there were five householders of great merit, and knowing that his kingdom has no such extraordinary householders, King Pasenadi Kosala requested King Bimbisāra, who was his friend and brother-in-law, to send one of those householders to his domain.
King Bimbisāra discussed this matter with his ministers and came to the conclusion that they could not fulfil King Pasenadi’s request. However, to satisfy his wish they agreed to send one of the five householders’ sons. Then, the king requested Dhanañjaya, the son of Meṇḍaka, to move and settle in the Kingdom of Kosala. Accordingly,Dhanañjaya along with his family moved from Bhaddiya into the Kosalan
Kingdom. On the way, Dhanañjaya arrived at a place which was suitable for human settlement, big enough for his household to live in and only seven miles from the capital city, Sāvatthi. With the agreement of King Pasenadi, Dhanañjaya founded a new city at that place; and since it was a place of the settler’s choice, the city was called “Sāketa”.
The young Visākhā spent her childhood at Sāketa together with her parents, who highly venerated the Blessed One and frequently invited bhikkhus to receive alms and to preach the noble Dhamma. She grew up as a maiden endowed with five kinds of beauty (pañca kalyāṇāni), namely beauty of hair (kesa kalyāṇa), beauty of lips (maṁsa kalyāṇa), beauty of teeth (aṭṭhi kalyāṇa), beauty of skin (chavi kalyāṇa), and
beauty of youth (vaya kalyāṇa).
The Wedding Ceremony
In Sāvatthi, there lived a wealthy householder’s son named Puṇṇavaḍḍhana, who had reached manhood. His father, Migāra, advised him to marry a girl from a householder’s family of equal lineage. But, Puṇṇavaḍḍhana insisted that he would only marry a girl endowed with five kinds of beauty. Migāra could only follow his will. However, he summoned a team of brahmins and told them to look in the entire country for such a maiden. The brahmins carried out their mission by travelling to cities and villages, searching diligently, but they could not find a single maiden endowed with the five kinds of beauty. So, they decided to come back to Sāvatthi.
On their return journey, they arrived at Sāketa, where a certain festival day was being celebrated. At that time, Visākhā, who was about fifteen or sixteen years old, accompanied by her five hundred female attendants all of her age, went on foot to the river to bathe. Just then, an unexpected thunderstorm burst. All the five hundred
girls ran away ungraciously for shelter to avoid getting wet. Meanwhile, the brahmins noticed them carefully, but still they did not see a promising girl. But then, they saw Visākhā, who was walking at her normal pace with great dignity behind them; she disregarded the rain and reached the shelter with all her clothes and ornaments
soaked. When the brahmins saw Visākhā, they were greatly impressed with her graceful manner. Immediately, they distinguished her beautiful features which coincided with the expectation of their master’s son. But still, they could not see one feature: her teeth.
In order to know this feature, the brahmins approached Visākhā and started a conversation with her:
“Little daughter, you walk graciously like an elderly lady.”
“Father, why do you say so?”
“Little daughter, all your companions ran away hastily for shelter to avoid getting wet. But you came here walking at a normal pace; you neglected the heavy shower that was drenching your dress. Suppose an elephant or a horse were chasing after you, would you do the same way?”
Visākhā answered: “Father, if I wished, I could run even faster than them, but I refrained from doing so. Father, there are four beings for whom it is unbecoming to hastily run about. First, it is unbecoming for an inaugurated king (abhisittarājā), adorned with all jewels, to gird up his loins and run in the palace-court; should he do so, he will surely be reproached: ‘Why does this king run about like a householder?’ Indeed, it is becoming for a king to walk gracefully. Second, it is unbecoming for a fully caparisoned state elephant (maṅgalahatthī) to run; it should move about with the natural grace of an elephant. Third, it is unbecoming for one who has gone forth
(pabbajita) to run about; should he do so, he will be reproached: ‘Why does this ascetic run about like an ordinary layman?’ Indeed, it is becoming for an ascetic to walk gracefully. Fourth, it is unbecoming for a dignified girl (itthī) to run about; should she do so, she would be reproached: ‘Why does this girl run about like a man?’ Besides, father, as an unmarried girl I have to take care of myself, as if tending merchandise offered for sale, so that I may not suffer damage and become useless. That was why I did not run away from the rain.”
The brahmins were pleased with the answer given by Visākhā and agreed among themselves that they had found suitable bride. Then, they went to her father and asked for her in marriage for their master’s son, Puṇṇavaḍḍhana. Dhanañjaya agreed to the betrothal, and accordingly arrangements for the wedding ceremony were made. Soon afterwards, the householder Migāra with his son Puṇṇavaḍḍhana and his whole family went to fetch the bride. When King Pasenadi Kosala heard of it, he joined the householder going to Sāketa.
When the bridegroom’s family, together with the king, arrived at Sāketa, Dhanañjaya entertained them merrily and splendidly, and the whole city was showered in a festive atmosphere. On the wedding day, Visākhā received an exquisite ornamental bridal dress—called “mahālatāpasādhana”—and a large amount of wealth as dowry from her father. Dhanañjaya also appointed eight confidential advisers to
examine carefully any complaint and to settle any dispute that might be raised against his daughter. Then, when she was about to go to her parents-in-law’s house in Sāvatthi, Dhanañjaya gave her admonitions, saying:
“Dear daughter, as a good housewife, you should serve your husband faithfully and manage the household affairs properly; these ten principles ought to be known and practised accordingly:
(1) You should not carry outside the indoor fire.
(2) You should not take inside the outdoor fire.
(3) You should give only to those who give.
(4) You should not give to those who do not give.
(5) You should give both to those who give and do not give.
(6) You should sit happily.
(7) You should eat happily.
(8) You should sleep happily.
(9) You should tend the fire.
(10) You should honour the household divinities.”
Finally, Visākhā and her party reached Sāvatthi. Considering that many people would desire to see the great bridal dress she was wearing, she exposed herself by standing in her carriage so that the greatness of her unique bridal dress could be seen by all.
Right from the beginning of her arrival in Sāvatthi, Visākhā was showered with various gifts by people of all ranks, according to their status and ability. But so kind and generous was she that she distributed them to other citizens of Sāvatthi so that all houses could get them. In this way, the citizens of Sāvatthi were soaked in charity from the first day that she came to her husband’s home. Thus, she treated all the residents of the city as her own kinsfolk.
Then, on the first night of her arrival at her parents-in-law’s house, she heard that her thoroughbred mare had a difficulty giving birth to a foal. Though it was the middle of the night, she had her maid-servants hold up the torches; they rushed to the stable. There, she attended to the delivery of the foal with greatest care and
attention. She also had the mare bathed in hot water and then had oil applied onto her body. Having attended upon them dutifully and having made sure that both the mare and foal were safe and in good condition, she went back to her chamber.
Charges Against Visākhā
The wedding reception was also held at Migāra’s house for seven days. Migāra, being a loyal follower of an order of naked ascetics, disregarded the Blessed One, who was residing at the Jetavana monastery. Instead, he invited a houseful of naked ascetics to his house for alms. He treated them with deep respect and served them with sumptuous foods. Then, he called Visākhā, his new daughter-in-law, saying: “Come, dear, and make obeisance to the Arahants!”
Visākhā was delighted to hear the word “Arahants” and eagerly went to the hall, expecting to see some bhikkhus (Buddhist monks). But, she was shocked seeing only naked ascetics devoid of all modesty, a sight unbearable for such a refined lady as Visākhā. She was greatly disappointed and thought: “These shameless fellows cannot be called ‘Arahants’. How could my father-in-law ask me to pay respect to them?”
She uttered in disgust: “Fie! Fie!” And at once, she turned away to her quarters without attending to them.
The naked ascetics, seeing Visākhā’s behaviour, were upset and reproached Migāra: “Householder, can’t you get a better daughter-in-law? Why have you brought a female follower of the ascetic Gotama to your house? Expel this demon of a woman from this house immediately!”
But, Migāra thought that he could not heed their advice, for she came from a high-class family. So, with much effort, he had to pacify his teachers by saying: “Masters, young people are reckless and they are inclined to do something which is known or unknown. Would you kindly keep your patience?” Then, on another occasion, while Migāra was eating rich rice porridge mixed with honey in a golden bowl and while Visākhā was fanning him, a bhikkhu on his alms-round was standing outside his house. Visākhā stepped aside so that Migāra could see the bhikkhu and give him alms;
but though the bhikkhu was in full view, Migāra continued with his meal and pretended not to notice his presence. Reading this situation, Visākhā politely told the bhikkhu: “Pass on, Venerable sir, my father-in-law is eating stale food.”
Hearing Visākhā’s words, Migāra misunderstood and flew into a rage. He instantly put his hands away from the golden bowl and said angrily to his attendants: “Keep away this milk food! Expel Visākhā from this house! Look, while I am eating this auspicious milk food in my auspicious house, Visākhā said I was eating dirt and filth!” But, all the attendants had been brought to the house by Visākhā herself, and
they all loved her for her kindness. Nobody dared to disobey even her words, let alone do physical violence against her; thus they refused to carry out Migāra’s order.
Visākhā then replied calmly and respectfully: “Father, I am not obliged to leave your house by your improper command and incorrect reason. I was not brought by you to this house like a slave girl from some ford. A good daughter, whose parents are still alive, does not obey this kind of unlawful command. It is for this very reason that my father, when I set out to come here, appointed eight advisers and entrusted me to them, saying: ‘Should there arise any problem concerning my daughter, you are to investigate the case and settle it.’ These eight people are my father’s trustees in whom my security lies. Would you send my case to them and let them investigate whether I am guilty or innocent?”
Migāra agreed to her reasonable request and summoned the eight advisers. Then, he said to them: “At a time of festivity, while I was sitting and eating rich rice porridge mixed with honey from a golden bowl, this girl said that I was eating dirt and filth. For this fault, I expel her from the house.”
The advisers asked Visākhā: “Daughter, did you say as your father-in-law has alleged?”
Visākhā explained: “Fathers, it is not exactly what I have said. The fact is that while he was eating rich rice porridge mixed with honey in a golden bowl, a bhikkhu stood at his door in quest for alms-food. When I saw my father-in-law completely ignoring the bhikkhu, I went up to the bhikkhu and said: ‘Pass on, Venerable sir, my father-in-law is eating stale food.’ By this, I meant to say that my father-in-law does
no meritorious deed in his present existence, but is living only on the fruit of his past deeds. Now fathers, what is the fault of mine in this case?”
The eight advisers concluded: “Householder, Visākhā’s explanation was reasonable, and she was not guilty in this case. Why should you be angry?”
Migāra replied: “So it is, gentlemen.” However, he continued charging Visākhā with another case, saying: “But, gentlemen, this girl had, at the very first night in this house, ignored her husband; she went behind the house with her attendants in the middle watch of the night.”
The advisers asked: “Dear daughter, did you ignore your husband and do as alleged?”
Visākhā explained: “Fathers, I did not go to any other place, but the fact is that I was attending to my thoroughbred mare, which was having difficulty in giving birth to a foal at the stable in that middle of the night. I considered it my duty to do so. I had my maid servants hold up the torches and supervise the proper delivery of the foal.
What is my fault then?”
The advisers told Migāra: “Householder, our daughter-in-law had been dutiful and done what even your maid-servants could not do. She had done it for your good only. Do you see it as an offence?”
Migāra accepted that she was not guilty of his second charge. But again, he complained about the ten admonitions given by her father Dhanañjaya to her on the day of her departure from her house. For instance, Dhanañjaya said to her: “She should not carry outside the indoor fire.” Migāra then said: “How is it possible to live without giving fire even to our neighbours?”
Hearing his complaints, Visākhā availed herself of the opportunity to explain all the ten admonitions in detail to his entire satisfaction: “My father has given the ten admonitions to me not in ordinary sense, but they should be understood respectively as follows:
(1) The wife should not divulge the affairs of her husband and parents-in-law to outsiders. Neither should their surroundings nor household quarrels be reported elsewhere.
(2) A wife should not report the criticism from other households towards her family to the other members of the family.
(3) Things should be lent to those who do return them.
(4) No article should be lent to those who do not return them.
(5) Poor kinsfolk and friends should be helped, even if they do not repay.
(6) A wife should sit in a becoming way. On seeing her parents-in-law or her husband, she should keep standing and not sit.
(7) Before partaking of her meal, a wife should first see that her parents-in-law and husband are served. She should also see that her servants are well cared for.
(8) Before sleep, a wife should see that all doors are closed, the furniture is safe, the servants have performed their duties, and that parents-in-law have retired. As a rule, a wife should rise early in the morning and, unless unwell, she should not sleep during the day.
(9) Parents-in-law and husband should be regarded as a blazing fire or as a nāga king that are to be always dealt with carefully and held in reverence.
(10) By these words my father admonished me, that when I become a housewife, I should give alms-food to bhikkhus who stand at my door for alms. Only after offering alms-food to them should I eat.”
Thereupon, the advisers gave a sarcastic remark to Migāra: “Householder, you seem to please yourself by ignoring bhikkhus who come to you for alms-food.”
Hearing this, Migāra sat in silence, his face looking downwards and had no words to retort it.
Having proved her innocence, Visākhā then said to the eight advisers: “Fathers, I did not deem it wise to obey to my father-in-law’s rash command in expelling me, for my father had entrusted me to your care and to settle problems concerning myself. And now that I am cleared of my fault, I am happy to go from this house.”
Migāra immediately apologised to Visākhā for his fault: “Dear daughter, I had been reckless. Forgive me!”
Visākhā, seeing her opportunity, said to her father-in-law: “Dear father, I readily forgive you for what is forgivable. And, let yourself know that I have absolute and unshakeable faith in the Teachings of the Buddha. I cannot stay at a place where the Blessed One and His bhikkhu disciples are not welcome. I shall stay only if I am allowed to invite bhikkhus to the house to offer alms-food and make other offerings to them in complete freedom. Otherwise, I shall leave.”
Her father-in-law promptly replied: “Dear daughter, I grant you complete freedom to invite the Blessed One and His bhikkhu disciples and to perform religious activities.”
The Conversion of Migāra
Thereafter, Visākhā lost no time in inviting the Blessed One and His disciples to her house for the next-day alms-food. Then, on the following day when the time for meal had come, the Blessed One dressed and took His bowl and outer robe; He went to her house, accompanied by His disciples. At that time, learning of the visit of the Blessed One to Migāra’s house, the naked ascetics went thither and sat surrounding
the house.
Having offered the alms-food to the Blessed One and poured libation water, she sent words to her father-in-law that everything was ready for serving the meal to the Blessed One and His disciples. She invited him to join her in attending to the Blessed One personally. But following the instruction of the naked ascetics, Migāra replied to
Visākhā: “Let my dear daughter herself attend to the Blessed One.”
When the meal was over, Visākhā informed her father-in-law to come and listen to the Blessed One’s discourse. Migāra felt that he should not refuse for a second time, thinking: “It would not be good if I were to refuse her invitation again.” He had an inner urge to listen to the Blessed One’s discourse and went to the hall. However, the naked ascetics advised him: “If you were to listen to the ascetic Gotama’s discourse, you should be screened off from Him.” Just to be polite, he appeared shortly and then concealed himself behind a curtain while listening to the Blessed One’s discourse.
However, the Blessed One’s discourse could be heard well by any audience, whether hidden or far away from Him, whether divided by a wall or as distant as the whole extent of a world system. Thus, the Blessed One’s words moved him so deeply that while sitting hidden from view, at the end of the discourse he penetrated the ultimate Truth about the nature of existence and was established in the Fruition of
Stream-Entry. Subsequently, he lifted up the screen and went up to the Blessed One, prostrating himself at His feet and declared his allegiance to the Triple Gems. Filled with overwhelming gratitude to the Blessed One and also to his daughter-in-law, he extolled Visākhā before the Blessed One’s presence, saying: “Dear daughter, from this
day onwards, I would respect you like my own mother.” Since then, Visākhā came to be known as “Migāra’s Mother” (Migāramātā).
On the next day, Visākhā invited the Blessed One for another meal offering. On that occasion, her mother-in-law also became a Sotāpanna. From that day onwards, the entire family became devoted supporters of the Blessed One and His Order of Bhikkhus and Bhikkhunīs.
Then, Migāra thought: “I want to express my gratitude towards my daughter-in-law Visākhā, who has given me real happiness and welfare. The mahālatāpasādhana is too cumbersome for her daily wear. I shall give her a suitable dress for wearing by day or by night, suitable for all her bodily postures.” He then had an ornamental dress, called “ghanamaṭṭhaka”, made for her everyday use at a cost of one hundred
thousand. On the day of the presentation of this dress, Migāra held for her a special festival in her honour. He invited the Blessed One and His disciples to an offering of food, and she was made to bathe in sixteen pots of perfumed water.
The Eight Boons of the Buddha
On one occasion, when the Blessed One and the Order of Bhikkhus accepted Visākhā’s invitation of meal offering at her house, she requested Him to grant her eight boons. He replied that the Perfect One had gone beyond the fulfilling of boons. She said that she wished for those which were allowable and those which were blameless. When the Blessed One let her speak on, she mention her eight wishes,
saying: “Lord, I should like to provide: (1) rains-cloth (vassikasāṭika) to the Saṁgha for as long as I live, (2) food for visiting bhikkhus, (3) food for bhikkhus setting out on a journey, (4) food for sick bhikkhus, (5) food for bhikkhus tending another sick
bhikkhu, (6) medicine for sick bhikkhus, (7) a regular supply of rice gruel, and (8) bathing-cloths (udakasāṭika) for the Saṁgha of Bhikkhunīs.”
The Blessed One then asked her for which special reasons she requested these eight boons. She explained in detail:
“Lord, in order to to preserve their robes, some bhikkhus were seen with their robes laid aside, letting their bodies get wet with rain and thus were mistaken for naked ascetics. Nakedness, Lord, is improper; it is disgusting and repulsive. Having this reason, I want to give them rains-cloth.”
“Lord, a newly incoming bhikkhu does not know the streets and alms resorts, and has to walk for alms despite his weariness from his journey. Having this reason, I want to give food for visiting bhikkhus.”
“Lord, a bhikkhu, who is setting out on a journey, may miss his caravan through having to seek food for himself, or may arrive late at the place where he wants to stay, and may get tired on the journey. Having this reason, I want to give a good meal to out-going bhikkhus.”
“Lord, a sick bhikkhu has to suffer much, and may even die if he lacks suitable food; therefore I want to cook food for sick bhikkhus.”
“Lord, a bhikkhu tending another sick bhikkhu had to go on alms-round for himself as well as for the sick bhikkhu; he could easily be late, and both would not be able to eat past noon time because the meal time had already passed; therefore, I want to provide food for sick-nurse bhikkhus.”
“Lord, when a sick bhikkhu does not get suitable medicine, his sickness can get worse and may even die. Therefore I want to provide medicine for sick bhikkhus.”
“Lord, I have heard some benefits are connected with rice gruel in the early morning, so I would like to provide gruel to the Order.”
“And Lord, it was unsuitable for bhikkhunīs to bathe without clothes, as had happened recently. Therefore, I would like to provide them with a suitable covering.”
Then, the Blessed One asked: “But, Visākhā, what benefits do you foresee for yourself in asking the Perfect One for the eight boons?”
Visākhā gave an elaborate answer: “As to that, Lord, bhikkhus who have spent the rains in various places will come to Sāvatthi to see the Blessed One. They will approach the Blessed One and question Him thus: ‘Lord, the bhikkhu named so-and-so has died; what is his destination? What is his rebirth?’ The Blessed One will tell how such a one had reached the Fruition of Stream-Entry, or of Once-Returning, or of Non-Returning, or of Arahantship.”
“I shall approach the bhikkhus and ask: ‘Venerable sirs, did that bhikkhu ever come to Sāvatthi?’ If they answer that he did, I shall conclude that surely a rains-cloth will have been used by that bhikkhu, or visitors’ food, or food for one going on a journey, or food for the sick, or food for a sick-nurse, or medicine for the sick,
or the regular morning rice-gruel.”
“When I remember it, I shall be glad. When I am glad, I shall be happy. When my mind is happy, my body will be tranquil. When my body is tranquil, I shall feel pleasure. When I feel pleasure, my mind will become concentrated. That will bring the development of spiritual faculties in me and the development of spiritual powers and also the Enlightenment factors. This, Lord, is the benefit I foresee for myself in asking for the eight boons of the Perfect One.”
“Good, good, Visākhā; it is good that you have asked the Perfect One for the eight boons foreseeing these benefits. I grant you the eight boons.”
Construction of the Pubbārāma Monastery
Visākhā was soon widely known as the auspicious lady in Sāvatthi. The citizens of Sāvatthi would invite her whenever they held ceremonial offerings. One day, after Visākhā had attended such a ceremony, she proceeded to the Jetavana Monastery with her entourage—she was adorned with her gorgeous mahālatāpasādhana dress. On arrival, she thought it out of modesty if she were attired in that dress to meet the Blessed One. So, at the entrance to the monastery, she entrusted it to her
maid-servant and put on the ghanamaṭṭhaka dress instead.
Then, she went to the Blessed One, paid obeisance to Him and listened
to His discourse. Delighted with the discourse, she left the hall accompanied by her maid-servant, who forgot to take Visākhā’s dress with her. It was the routine duty of the Venerable Ānanda to look after things left by any absent-minded lay disciples. When he found Visākhā’s dress, he reported to the Blessed One, who asked him to keep it in a safe place to be returned to the owner.
Meanwhile, she went round the various places in the Jetavana Monastery to find out things needed by the bhikkhus and sāmaṇeras. And after having visited the sick bhikkhus and sāmaṇeras and attending to their needs, she left the monastery by another gate. At that time, she wanted to wear her mahālatāpasādhana dress again and asked her maid-servant to bring it to her. Only then did the maid remember about
it and said: “My lady, I have forgotten to pick it up.”
“Then, go and bring it back! However, unless the Venerable Ānanda had kept it under his custody, say to him that the dress is to be considered as already donated to him,” said Visākhā to her.
When the Venerable Ānanda saw Visākhā’s maid-servant coming, he told her to collect it. Knowing that the Venerable Ānanda had kept it, the maid said to him as instructed by Visākhā. She then reported what had happened to Visākhā.
But then, Visākhā thought that it would be troublesome for the Venerable Ānanda keeping it in his custody. She thought she would sell the dress; with the proceeds, she would donate something proper to the Saṁgha. Thereafter, Visākhā displayed the dress on an elephant and put it up for public sale at a price of nine crores and a hundred thousand, as had been appraised by goldsmiths. But since there was no one who could afford to buy the dress, Visākhā bought it herself.
Then, Visākhā went to the Blessed One and expressed her desire to do something beneficial to the Saṁgha with the money. The Blessed One advised her to build a monastery. She was very glad to hear that; accordingly she bought—at a cost of nine crores—a piece of land near the eastern city gate of Sāvatthi. The construction of the monastery soon began under the supervision of the Venerable Moggallāna. It took
nine months to complete. The monastery was called the Mansion of Migāra’s Mother (Migāramātu-pāsāda). And because it was located in the Eastern Park, it was also known as the Pubbārāma Monastery.
When the monastery was completed, Visākhā held a ceremony to donate it to the Saṁgha; she also invited Him to spend the rains-residence in the new and spacious monastery. The ceremony lasted four months at a cost of another nine crores. The total expenses which Visākhā incurred in her donation towards the Pubbārāma Monastery was twenty-seven crores. Just as the Blessed One frequently stayed in the Jetavana Monastery built by Anāthapiṇḍika, it was also recorded that He stayed
in the Pubbārāma Monastery for at least six rainy seasons.
Visākhā’s Questions
There were numerous discourses preached by the Blessed One to Visākhā
during her frequent visits; chief among them being the famous discourse on observing the Uposatha days. In that discourse, the Blessed One expounded the true Uposatha days of the noble ones; these Uposatha days should be observed by lay devotees. It consists of the observance of the Eight Precepts and reflection on the virtues of the
Blessed One, the Dhamma, and the Saṁgha, and on the devas and one’s own virtue.
In another discourse, Visākhā asked the Blessed One about the qualities which would enable a woman to get welfare and happiness in this world and in the next. The Blessed One answered that in four ways a woman would get welfare and happiness in this world, that is by being capable at her work, by managing her servants, by loving her husband, and by guarding his property. And in four ways a woman would get welfare and happiness in the next world, that is, by being established in faith (saddhā), virtue (sīla), generosity (cāga), and wisdom (paññā).
At another time, Visākhā questioned the Blessed One concerning the qualities in a woman which would lead to her to a rebirth among “the graceful devas” (manāpakāyikā-devā). The Blessed One expounded eight conditions that a woman should possess: that she is always an agreeable and pleasant companion to her husband, irrespective of his conduct; that she honours and looks after the people, such as his parents, the wise men, and people who are dear to her husband and are
worshipped by him; that in her housework, she is industrious and careful; that she supervises the servants well, cares for them properly, and considers their health and their food; that she guards her husband’s property and does not dissipate his wealth; that she takes refuge in the Blessed One, the Dhamma, and the Saṁgha; that she
observes the Five Precepts; and that she delights in generosity and renunciation.
The Industriousness of Visākhā
Visākhā used to give alms to five hundred bhikkhus daily at her house. In the afternoon, she visited the Blessed One; after listening to His sermon, she would go round the monastery inquiring into the needs of the bhikkhus and bhikkhunīs and ensuring that none of them lacked food, clothing, shelter, bedding, and medicine. She was sometimes accompanied by Suppiyā, another devout Buddhist lady.
Visākhā had ten sons and ten daughters, each of whom had the same number of children, and so on down to the fourth generation. Visākhā herself lived to the remarkably high age of one hundred and twenty, but without having a grey hair. All her life, she always retained the appearance of a sixteen-year-old girl. Before her death, besides her twenty direct lineal descendants, she had four hundred grandchildren and eight thousand great-grandchildren. It is also said that she had
physical strength equivalent to five elephants; she could work untiringly, looking after her large family. Once, the king, wanting to test Visākhā’s reputed strength, let loose a great elephant in her direction. All her five hundred attendants ran away in fear, but she calmly took the trunk of the elephant between her two fingers and
forced him back on his courtyard in the palace.
Visākhā played an important role in various activities connected with the Sāsana. At times, she was deputed by the Blessed One to settle disputes that arose amongst bhikkhunīs. Some Vinaya rules were also laid down for bhikkhus owing to her intervention.
By her dignified conduct, graceful deportment, refined manners, courteous speech, obedience and reverence to elders, compassion to those who are less fortunate, kind hospitality, and religious zeal, she won the hearts of all who knew her.
She was declared foremost among the female lay supporters who served as supporters of the Blessed One and the Order of Bhikkhus and bhikkhunīs (dāyikānaṁ aggā).
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アシン・クサラダンマ長老
1966年11月21日、インドネシア中部のジャワ州テマングン生まれ。中国系インドネシア人。テマングンは近くに3000メートル級の山々が聳え、山々に囲まれた小さな町。世界遺産のボロブドゥール寺院やディエン高原など観光地にも2,3時間で行ける比較的涼しい土地という。インドネシア・バンドゥンのパラヤンガン大学経済学部(経営学専攻)卒業後、首都ジャカルタのプラセトエイヤ・モレヤ経済ビジネス・スクールで財政学を修め、修士号を取得して卒業後、2年弱、民間企業勤務。1998年インドネシア・テーラワーダ(上座)仏教サンガで沙弥出家し、見習い僧に。詳しく見る
奥田 昭則
1949年徳島県生まれ。日本テーラワーダ仏教協会会員。東京大学仏文科卒。毎日新聞記者として奈良、広島、神戸の各支局、大阪本社の社会部、学芸部、神戸支局編集委員などを経て大阪本社編集局編集委員。1982年の1年間米国の地方紙で研修遊学。2017年ミャンマーに渡り、比丘出家。詳しく見る
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