寺子屋スジャータ

52話 侍者アーナンダ ・・・・ ブッダのことばの管理人

南伝ブッダ年代記 | アシン・クサラダンマ | 花

アシン・クサラダンマ長老 著 
奥田昭則 訳 / チョウ・ピュー・サン 挿絵

第4部 ブッダをめぐる人々

第5章 在家信者への教え  

52話  侍者じしゃアーナンダ ・・・・ ブッダのことばの管理人

南伝ブッダ年代記

パドゥムッタラ・ブッダ(蓮華上佛陀)の時代、アーナンダ尊者はハンサヴァティー国のアーナンダ王とスジャーター妃の息子で、スマナ王子という名であった。あるとき、王子は辺境地方の反乱を鎮圧した後、父王から褒美を与えられた。そこで王子は、世尊と十万人の比丘に三か月の雨安居うあんごでもてなすのを許してくれるように、と求めた。そのときスマナ王子は、世尊の侍者であるスマナ尊者の忠誠心と偉大な献身ぶりに、強い印象を受けた。それに感動して王子はパドゥムッタラ・ブッダの眼の前で、スマナ尊者がパドゥムッタラ・ブッダの侍者であるのと同じように、自分は未来のブッダの侍者になろう、という大望を抱いたのである。

それ以降、十万劫の年月のあいだに、未来のアーナンダ尊者は、最後に兜率天とそつてんで未来のゴータマ・ブッダとともに再生するまで、多くの輪廻転生りんねてんしょうの中でさまざまな善行為をして功徳を積んだ。その最後の生存から亡くなった後、ゴータマ・シッダッタ菩薩(ボーディサッタ)と同じ日に、スッドーダナ王の弟であるアミトーダナ王子の息子として生まれたのである。

アーナンダは、他の五人の釈迦族王家の青年たち、バッディア、アヌルッダ、バグ、キンビラ、デーヴァダッタとともに、ゴータマ・ブッダの最初の里帰り訪問のあいだに、在家生活から離れる決心をした。そのころ世尊はカピラヴァットゥ(カピラ城)から出発して、アヌピア・マンゴー林に滞在されていた。そこで六人の釈迦族王家の青年たちと、七人目として加わった理髪師のウパーリは、アヌピアに向かい、世尊のもとで、出家の具足戒を受けたい、と願った。

比丘となってほどなく、アーナンダ尊者はプンナ・マンターニプッタ尊者の法話を聴き、預流(ソーターパッティ)果にさとった。

成道じょうどう後の二十年間、世尊は身のまわりの世話をしてもらう専任の侍者を持たれなかった。何人かの比丘が随時、世尊のお世話をしたが、それはナーガサマーラ、ナーギタ、ウパヴァーナ、スナッカッタ、サーマネーラ、チュンダ、サーガタ、ラッダ、メーギヤである。世尊はこうした比丘のとくに誰ということなく、格別には喜ばれなかった。なぜなら、かれらはたいへんきちんと義務を果たしたというわけではなく、世尊の指示にいつも必ず従ったのでもなかったからである。

世尊が伝道布教を始めてから二十年たったその終わりに、ジェータヴァナ僧院(祇園精舎)に世尊が住まわれていたとき、比丘たちに、こう呼びかけられた。

「比丘たちよ、わたしは年老いた。わたしを世話する比丘のなかには、わたしが行こうとして選ぶ道とはちがう道を取る者もいる。わたしの托鉢の鉢と外衣を地面に置いて、行ってしまう比丘すらいるのだ。そこで、これからずっとわたしの世話をする専任の弟子を一人、どうか選び出してほしい!」

ときを置かず、サーリプッタ尊者が席から立ち上がり、世尊に礼拝し、世尊の専任の侍者になりたい、と名乗り出た。しかしながら世尊は、サーリプッタ尊者が世尊と同じように世に法を説くことができる貴重な人材である、という事実によって、その申し出を断られた。それからモッガラーナ尊者も侍者になりたい、と買って出たが、同様に却下された。さらに八十大弟子たちが次々に申し出たが、すべて同じ結果になった。

アーナンダ尊者ただ一人が残った。かれは沈黙したままであった。それから、比丘たちがかれに、こう促した。

「友アーナンダよ、われらはそれぞれ、世尊に侍者としてお世話するという栄誉を志願した。そなたも志願するべきだ」

アーナンダ尊者が答えて言った。

「友よ、その務めは、もとめてするものではない。もし尊師がそう望まれるのなら、『アーナンダよ、わたしの侍者になりなさい!』と、おっしゃるであろう」

その後で、世尊は比丘たちに、こう言った。

「比丘たちよ、アーナンダは如来(訳注:世尊のこと)の世話をするに当たって、誰の助言も必要としないのです。かれはみずから納得して、わたしに奉仕するであろう」

そのときアーナンダ尊者は自分の席から立ち上がり、世尊に礼拝し、世尊が八つの願いを聞き届けてくださる、という条件ならお受けする、と表明した。かれは、こう言ったのだ。

「尊師よ、次の四つをしない、という条件を、もし世尊が、わたしに与えてくださるなら、わたしは、世尊の侍者となりましょう。

 

1.世尊みずから布施として受けとった衣を、わたしに与えない。

2.世尊みずから布施として受けとった食べ物を、わたしに与えない。

3.世尊みずから布施として受けとった住まいを、わたしに与えない。

4.世尊が在家の信者から受けた布施食の招待に、わたしを連れて行かない。」

 

世尊はアーナンダ尊者にきかれた。

「アーナンダよ、この四つに、どんな不利益がある、とお前は見ているのか?」

「尊師よ、このうちのどれでも、もし世尊がなさいますと、人びとはアーナンダの世尊への奉仕が、衣、食、住、そして招待を得たいがためのものであろう、とあげつらうことでございましょう」と、アーナンダ尊者が答えた。

さらに、アーナンダ尊者は言った。

「尊師よ、次の四つの特別のお許しを、もし世尊が、わたしに与えてくださるなら、わたしは、世尊の侍者となりましょう。

1.世尊は、わたしが尊師の身代わりで受けた招待に、どうか一緒にお出かけくださいますように。

2.世尊は、わたしが、遠方から尊師に面会に来た訪問者をお引き合わせするかどうか決めるのを、お許しくださいますように。

3.世尊は、わたしに疑問が起きて困惑したときはいつでも、どうか相談に乗ってくださいますように。

4.世尊は、わたしがおそばにいないときにされたどんな説法でも、どうか再現してわたしに教えてくださいますように。」

 

世尊はアーナンダ尊者にきかれた。

「アーナンダよ、この四つに、どんな利益がある、とお前は見ているのか?」

「尊師よ、在家の応援者からわたしを通してされた招待に、もし世尊が応じられなければ、あるいは、遠方から面会に来た訪問者をお引き合わせしたい、というわたしの要請に、もし世尊が応じられなければ、あるいは、わたしが教義の問題で困惑したとき、わたしからの説明の要請に、もし世尊が応じられなければ、そんなとき、人びとは、こう言うでありましょう。『こんなことすら出来ないなら、アーナンダが世尊の侍者としてお世話していることに、何の意味があるのだ?』」と、アーナンダ尊者が答えた。

「さらにまた、尊師よ、四番目のお許しの利益については、もし他の比丘がわたしに『友アーナンダよ、この偈は、この法話は、前世譚は、世尊がどこでなさったのか?』と、きくとしましょう。そうした質問に、もし万一、わたしが答えられないとしたら、かれらは、こう言うでしょう。『友よ、そなたは世尊のまさに影のように、とても近くにずっといるのに、こんなことすらも知らないのか』と。尊師よ、そのような批難を避けるため、わたしは世尊に特別のお許しをお願いしているのです。尊師よ、これらが、わたしの見ている四つのお願いの利益でございます」と、アーナンダ尊者が答えた。

世尊は、こうした八つの願いを許した。それ以来、アーナンダ尊者は世尊の従者となり、二十五年間、世尊がどこに行かれても、世尊の最後の瞬間まで、影のように付き添った。

アーナンダ尊者は世尊に対してとびきりの敬愛と配慮をもってお世話した。昼間には世尊に冷たい水とお湯を持って行った。爪楊枝を用意し、世尊の足を洗い、手足をもみ、入浴されるときは背中を流し、身辺を掃除し、世尊の香房の室内をきれいにして差し上げた。いつでも世尊のそばにいて、世尊のほんのちょっとした願い事でもかなえるようにした。

そして夜間には、太い杖と大きなたいまつを手にもち、世尊の香房を九回まわった。何か必要とされるかもしれないときに、アーナンダ尊者自身が眠らずに起きているためである。これはまた、世尊の眠りがじゃまされないようにするためでもあった。

アーナンダ尊者は、世尊の説法をすべて聴けるという極めて特別の許しを得ていた。後に、「法の管理人」(Dhammabhaṇḍāgārika(ダンマバンダーガーリカ))にアーナンダ尊者が指名されたのは、世尊のことばを記憶にとどめておく強靱な記憶能力によるものである。

ある折、世尊がジェータヴァナ僧院(祇園精舎)に住まわれていたときのことだが、世尊は、アーナンダ尊者を仏弟子中、五つの点で「第一」とされた。それは、広く学んだ「多聞者(バフスターナン)」、「記憶能力者(サティマンターナン)」、世尊の教えの連続する構造に精通した「正行者(ガティマンターナン)」、世尊の教えを学び、記憶し、朗唱し、関心をもつことが確立した「堅固者(ディティマンターナン)」、そしてお世話して奉仕する「侍者(ウパンニャーカーナン)」の五つだった。

「テーラガーター(長老の偈)」の中で、アーナンダ尊者は、あるバラモンからきかれた世尊の教えについての質問に答えて、こう言っている。

「わたしは世尊から八万二千を受けとり、比丘たちから二千を受けとりました。かくて八万四千の法蘊(ダンマッカンダ)(法門)があり、教えの輪(法輪)は転じています」

世尊はまた、アーナンダ尊者への親愛の情を、般涅槃(パリニッバーナ)(入滅)の直前に、こんなふうに言われている。アーナンダ尊者は賢明で、比丘たち(ビックー)、比丘尼たち(ビックニー)、在家の男性信者たち(ウパーサカー)、在家の女性信者たち(ウパーシカー)、王たち、大臣たち、異教の師たち、異教の弟子たちを、如来(タターガタ)のもとへ連れてくるのにふさわしいときを知っている。かれには、ふしぎな珍しい四つの資質がある。かれに会いにやって来た比丘たち(ビックー)、比丘尼たち(ビックニー)、在家の男性信者たち(ウパーサカー)、在家の女性信者たち(ウパーシカー)、は誰でも、かれと会って顔を見るだけで心が喜びで満たされる。もし、かれの説法を聴くと、心楽しくなる。しかし、かれが沈黙しているときも心楽しく、顔を見ているだけで飽きることがないのだ-と。

アーナンダ尊者はジェータヴァナ僧院(祇園精舎)の入り口付近に菩提樹を植える責任を負った。世尊が旅に出て不在のとき訪れる人びとが、それでも世尊に礼拝できるようにするためである。この菩提樹はアーナンダ尊者が植樹したため、アーナンダ菩提樹として知られるようになった。またアーナンダ尊者はヴェーサーリーでの五回目の雨安居で、比丘尼僧団の創立にも責任を負っている。かれの計らいで、マハーパジャーパティー・ゴータミーと五百人の釈迦族の女性たちが僧団入りを成就した。比丘たちの衣のデザインは、アーナンダ尊者が世尊に質問したおかげで定められた。マガダ国の田畑の形にちなんだものである。

アーナンダ尊者は、世尊にずっといっしょに同行した侍者であり、卓越した仏弟子で、法に精通していたにもかかわらず、世尊の般涅槃後まで阿羅漢のさとりを得られなかった。しかしながら、かれは「学習者」(有学(セッカ)=うがく・訳注:まだ学ぶべきものがある者)として生き、分析智(無碍解智(パティサンビダーニャーナ)・むげげち)を持っていたのだ。世尊のかれへの最後の訓戒は「アーナンダよ、お前は多くの功徳を積んだ。不放逸に精進を続けよ、そうすればほどなく汚れから解脱するであろう」というものであった。

アーナンダ尊者が阿羅漢に達したのは世尊入滅からおよそ三か月後であった。そのころ最初の仏教徒会議(第一結集(サンガーヤナー))が開かれていたが、かれはまだ有学(セッカ)であった。かれは、こう考えた。

(会議はあす開かれる。有学(セッカ)としてわたしが参加するのは適当ではない)

かれは世尊の最後の訓戒を思い出し、それから一晩中、必死に精進して、みずからの身体の観察をする冥想に取り組んだ。明け方近くになって、みずからの冥想のはたらきを見つめ直した。

(あまりに必死に精進しすぎて、それがわたしの心を興奮させている。わたしは、エネルギーと集中のバランスを取らなければならない)

このように反省して、自分の足を洗い、かれの部屋に入ってひと休みした。気づきをもって、寝台にゆっくり横たわろうとした。かれの両足が床を離れたとき、そしてかれの頭はまだ枕にふれていなかったのだが、そのごく短い瞬間に、無執着を通して、煩悩の汚れから解脱したのである。かくてアーナンダ尊者は四威儀路の最中ではなく、つまり、歩く・立つ・坐る・臥す、の行住坐臥ぎょうじゅうざがの最中にではなく、阿羅漢に達したのであった。

アーナンダ尊者が百二十歳のとき、かれは自分があとわずか七日間の命であると見て、これをかれの弟子たちに告げた。かれはラージャガハからヴェーサーリーへ行った。アジャータサットゥ王はかれがやってくると聞いて、従者たちとともにローヒニー川まで追っていった。この知らせを聞いたヴェーサーリーの王族青年たちも急いでやってきて、かれに別れを告げた。かくして川の両岸に二つの集団が両方向から到着した。川の両側の人びとがかれにしてくれた奉仕を思い起こし、アーナンダ尊者は、どちら側も不興を感じないように望みつつ神通力を使ってローヒニー川の真ん中の上空へみずからを揚げ、足を組んで坐った。人びとに法話をして、その終わりに、火界(火遍(テージョーカシナ))の三昧さんまい冥想に入った。たちまちかれの身体が燃え上がった。かれの意思を通して身体は二つに割れ、その一つは近くの側へ、もう一つは遠くの側へ落ちた。それから、両側の人びとが、かれの遺骨を収める塔(ストゥーパ)を建立したのであった。

53話へ続く

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南伝ブッダ年代記

Episode 52  Ānanda, CUSTODIAN OF THE BUDDHA’S WORDS

In the time of the Buddha Padumuttara, the Venerable Ānanda had been the son of King Ānanda of Haṁsavatī and Queen Sujātā; he was named Prince Sumana. Once, he obtained a boon from his royal father after having quelled an insurrection of some frontier provinces. He asked to be allowed to entertain the Blessed One and a hundred thousand bhikkhus for their three-month rains-residence. At that time, Prince Sumana was much impressed by the loyalty and great devotion of the
Venerable Sumana, the Blessed One’s personal attendant. Being inspired, he made an aspiration in front of the Buddha Padumuttara to become a personal attendant of a future Buddha, just as the Venerable Sumana was of the Buddha Padumuttara.
Thenceforward, during the intervening period of a hundred thousand aeons, the future Venerable Ānanda performed various meritorious deeds in many rounds of existence before finally being reborn in the Tusita Heaven along with the future Buddha Gotama. After passing away from that existence, he was reborn on the same day as the Bodhisatta Siddhattha Gotama, as the son of Prince Amitodana, a younger brother of King Suddhodana.
Ānanda, together with the other five Sākyan princes—Bhaddiya, Anuruddha, Bhagu, Kimbila and Devadatta, decided to leave household life during the first visit of the Buddha Gotama to Kapilavatthu. At that time, the Blessed One had gone away from Kapilavatthu and was staying at the Anupiya Mango Grove. Then, those six Sākyan princes—with Upāli the barber joining as the seventh—set out to Anupiya and asked for higher ordination under the Blessed One.
Not long after becoming a bhikkhu, the Venerable Ānanda listened to a discourse by the Venerable Puṇṇa Mantāniputta and realised the Fruition of Stream-Entry (Sotāpatti).
During the first twenty years after His Enlightenment, the Blessed One did not have a permanent personal attendant. From time to time, several bhikkhus looked after Him, among them being Nāgasamāla, Nāgita, Upavāṇa, Sunakkhatta, Sāmaṇera Cunda, Sāgata, Rādha and Meghiya. The Blessed One was not particularly pleased with any of them because they were not very dutiful, nor did they always obey His
instructions.
At the end of the twenty years of His ministry, when the Blessed One was residing at the Jetavana Monastery, He addressed the bhikkhus, saying: “Bhikkhus, I am old now. Some bhikkhus attending upon Me would take a different route from what I chose; some bhikkhus would even put My alms-bowl and outer robe down on the ground and departed. Now, please choose out one disciple who will attend upon Me on a permanent basis!”
In no time, the Venerable Sāriputta rose from his seat, paid homage to the Blessed One, and expressed his wish to be the permanent personal attendant to Him. However, the Blessed One declined his service owing to the fact that the Venerable Sāriputta was a precious asset to the world and he could expound the Dhamma in the same way as the Blessed One did. Then, the Venerable Moggallāna volunteered
himself for the position but was rejected likewise. Subsequently, the eighty great disciples offered themselves, but all shared the same result.
The Venerable Ānanda alone was left; he remained silent. Then, the bhikkhus urged him: “Friend Ānanda, each of us has offered ourselves for the privilege of attending on the Blessed One. You should also offer yourself.”
The Venerable Ānanda replied: “Friend, that position is not something to be asked for. If the Lord so wished, He will say: ‘Ānanda, be my personal attendant!’”
Afterwards, the Blessed One said to the bhikkhus: “Bhikkhus, Ānanda does not need advice from anybody to attend on the Tathāgata. He will serve Me on his own accord.”
Then, the Venerable Ānanda rose from his seat, paid obeisance to the Blessed One and expressed his agreement on a condition that the Blessed One would grant him eight boons. He said: “Lord, if the Blessed One granted me these four refraining conditions, I would become the Blessed One’s personal attendant:

1. The Blessed One should not give me fine robes which He Himself had received.
2. The Blessed One should not give me fine food which He Himself had received.
3. The Blessed One should not allow me to dwell in the same Fragrant Chamber.
4. The Blessed One should not take me to the invitation of lay supporters to accept alms.”

The Blessed One asked to the Venerable Ānanda: “Ānanda, what disadvantages do you see in these four matters?”
“Lord, if the Blessed One did any of these things, people would criticise that Ānanda’s service to the Blessed One was done in order to get fine robes, food, lodging and to be included in the invitation,” replied the Venerable Ānanda.
Further, the Venerable Ānanda said: “Lord, if the Blessed One granted me these four special privileges, I would become the Blessed One’s personal attendant:

1.      The Blessed One should kindly go with me to the invitation which I had received on behalf of the Lord.
2.      The Blessed One should kindly give me permission to introduce visitors who come from afar to see the Lord.
3.      The Blessed One should kindly allow me to consult all my perplexities with the Lord whenever they arise.
4.      The Blessed One should kindly repeat to me any discourse that was taught in my absence.”

The Blessed One asked to the Venerable Ānanda: “Ānanda, what advantages do you see in these four favours?”
“Lord, if the Blessed One did not comply with my request to accept the invitations made by lay supporters through me, or did not comply with my request on behalf of visitors who have come from afar, or did not comply with my request to have right to ask for elucidation on doctrinal problems, then people would say: ‘What is the meaning in Ānanda’s personal attendance on the Blessed One if he is devoid of
even these things?’,” replied the Venerable Ānanda.
“And again, Lord, regarding the fourth favour, if other bhikkhus asked me: ‘Friend Ānanda, where was this stanza, or this discourse, or this birth-story given by the Blessed One?’. If I were unable to answer their question, they would say: ‘Friend, you have been so close to the Blessed One as His very shadow, and yet you do not know even this much.’ Lord, to avoid such criticisms, I am asking the Blessed One this favour. Lord, these are the advantages I see in the four boons I am asking for,” replied the Venerable Ānanda.
The Blessed One granted these eight boons. Since then, the Venerable Ānanda became the Blessed One’s personal attendant for twenty-five years, following Him everywhere like His shadow till the Blessed One’s last moment.
The Venerable Ānanda attended upon the Blessed One with great love and care. By day, he would bring cold and hot water for the Blessed One; he would prepare toothpicks, wash His feet, massage His arms and legs, scrub the Blessed One’s back when He took a bath, sweep the precinct, and clean up the cell of the Blessed One’s Fragrant Chamber. He was always at the Blessed One’s side, fulfilling the Blessed One’s slightest wish.
And by night, with a stout staff and a large torch in his hands, he would go nine times round the Blessed One’s Fragrant Chamber in order to keep himself awake, in case he were needed; this is also to prevent the Blessed One’s sleep from being disturbed.
The Venerable Ānanda had the rare privilege of listening to all the discourses of the Blessed One. He was later appointed the Custodian of the Dhamma (Dhammabhaṇḍāgārika) owing to his powerful retentive memory in remembering the words of the Blessed One.
On one occasion, when the Blessed One was residing at the Jetavana Monastery, He ranked the Venerable Ānanda foremost amongst His disciples in five respects: wide learning (bahussutānaṁ), good retentive memory (satimantānaṁ), mastery over the sequential structure of the Teachings (gatimantānaṁ), steadfastness in studying, memorizing and reciting the Teachings and in caring for the Blessed One (dhitimantānaṁ), and rendering personal service (upaṭṭhākānaṁ).
In the Theragāthā, the Venerable Ānanda replied to the question of a brahmin regarding his knowledge of the Dhamma: “I receive eighty-two thousand from the Blessed One and two thousand from the bhikkhus. Thus, there are eighty-four thousand units (dhammakkhandha), Teachings that are set in motion.”
The Blessed One also mentioned His affection for the Venerable Ānanda shortly before His Parinibbāna, saying that the Venerable Ānanda was wise to know the right time to bring bhikkhus, bhikkhunīs, upāsakas, upāsikās, kings, kings’ ministers, sectarians and sectarians’ disciples to the Tathāgata. He had four wonderful and marvelous qualities in that whoever came to see him—bhikkhus, bhikkhunīs,
upāsakas or upāsikās—were all filled with joy on beholding him; if he preached to them, they were glad at his speech; but when he was silent, they would be left unsatiated.
The Venerable Ānanda was responsible for the planting of the Bodhi tree at the entrance of the Jetavana Monastery in order that people might still worship the Blessed One when He was away on tour. Because the tree was planted by the Venerable Ānanda, it became known as Ānanda-Bodhi. The Venerable Ānanda was also responsible for the establishment of the Order of Bhikkhunīs at the fifth rains-residence in Vesālī. Through his intervention, Mahāpajāpatī Gotamī and five
hundred Sākyan ladies succeeded in entering the Order. The design of the robes for bhikkhus—after the field patterns in Magadha—was laid down by the Blessed One thanks to the Venerable Ānanda’s question.
Although the Venerable Ānanda had been the constant companion of the Blessed One, a distinguished disciple, well-versed in the Dhamma, it was not until after the Blessed One’s Parinibbāna that he was able to realise Arahantship. Though he lived as a “learner” (sekkha), he had the Analytical Knowledge (Paṭisambhidā Ñāṇa). The Blessed One’s final exhortation to him was: “You have made much merit, Ānanda. Keep on endeavouring, and you will soon be free from taints.”
The Venerable Ānanda’s attainment of Arahantship was about three months after the passing away of the Blessed One. At that time, the First Buddhist Council (Saṅgāyanā) was to be held but he was still a sekkha. He thought: “The Council will begin tomorrow. It would not be proper for me to participate as a sekkha.” He remembered the last advice of the Blessed One to him, and then he meditated with a
strenuous effort contemplating the body the whole night. When the night was near dawn, he reviewed his meditation work: “I have put too much effort, and this makes my mind agitated. I must balance between the energy and concentration.” Reflecting thus, he washed his feet and entered his cell to take a short rest. With mindfulness, he was lying down on the couch slowly. As his two feet were lifted over the floor,
and although his head had not yet touched the pillow, in that short moment his mind was liberated from taints through not clinging. Thus, the Venerable Ānanda attained Arahantship in none of the four postures, that is, while not lying down, not sitting, not standing, and not walking.
When the Venerable Ānanda was one hundred and twenty years old, he saw that he had only seven days to live, and he told this to his disciples. He went from Rājagaha to Vesālī. When King Ajātasattu heard that he was coming, he followed him with his retinues up to the Rohiṇī River. The princes of Vesālī, who also heard the news, hurriedly went out to bid him farewell. Thus, both parties reached the river banks from both directions. Reflecting that the people living on both sides had done much benefit to him, the Venerable Ānanda, not wishing to incur the displeasure of either party, raised himself into the air sitting cross-legged above the middle of the Rohiṇī River through his supernormal powers; he delivered a sermon to the people. At the end of the discourse, he entered into the ecstatic meditation of the fire element (tejokasiṇa). Instantly, his body ablazed. Through his will, his body split into two; one portion fell on the near side and the other on the farther side. Then, both parties erected stūpas to enshrine his relics.

To be continued

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アシン・クサラダンマ長老

1966年11月21日、インドネシア中部のジャワ州テマングン生まれ。中国系インドネシア人。テマングンは近くに3000メートル級の山々が聳え、山々に囲まれた小さな町。世界遺産のボロブドゥール寺院やディエン高原など観光地にも2,3時間で行ける比較的涼しい土地という。インドネシア・バンドゥンのパラヤンガン大学経済学部(経営学専攻)卒業後、首都ジャカルタのプラセトエイヤ・モレヤ経済ビジネス・スクールで財政学を修め、修士号を取得して卒業後、2年弱、民間企業勤務。1998年インドネシア・テーラワーダ(上座)仏教サンガで沙弥出家し、見習い僧に。

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ヴィパッサナー修習(観察冥想)実践、仏教の教理を学び、先輩僧指導の下、2000年までジャワ島、スマトラ島で布教に従事。同年11月、ミャンマーに渡り、チャンミ・イェッタ森林冥想センターで修行し、2001年、導師チャンミ・サヤドーのもとで比丘出家。同年、ミャンマー・ヤンゴンの国際仏教大学(ITBMU)入学、2004年首席(金メダル授与)卒業。同年以降2006年まで、バンディターラーマ冥想センター(ヤンゴン)、バンディターラーマ森林冥想センター(バゴー)でヴィパッサナー冥想修行。

奥田 昭則

1949年徳島県生まれ。日本テーラワーダ仏教協会会員。東京大学仏文科卒。毎日新聞記者として奈良、広島、神戸の各支局、大阪本社の社会部、学芸部、神戸支局編集委員などを経て大阪本社編集局編集委員。1982年の1年間米国の地方紙で研修遊学。2017年ミャンマーに渡り、比丘出家。

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著書にヴァイオリニスト五嶋みどり、五嶋龍の母の半生を描いた「母と神童」、単一生協では日本最大のコープこうべ創立80周年にともなう流通と協同の理念を追った「コープこうべ『再生21』と流通戦争」、新聞連載をもとにした梅原猛、今出川行雲、梅原賢一郎の各氏との共著 「横川の光 比叡山物語」。2021年、逝去。
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