寺子屋スジャータ

67話 大般涅槃(マハーパリニッバーナ)

南伝ブッダ年代記 | アシン・クサラダンマ | 花

アシン・クサラダンマ長老 著 
奥田昭則 訳 / チョウ・ピュー・サン 挿絵

第6部 入滅へ

第2章 入滅ーB.C.543年

67話 大般涅槃だいはつねはん(マハーパリニッバーナ)

南伝ブッダ年代記

この章では世尊の最後の旅のつづき、すなわちベールヴァ村からクシナーラーまでをたどってゆくことになる。

アンバパーリーのマンゴー林に御心のままの長さ、住まわれた後、世尊はヴェーサーリー近くのベールヴァ村へ、比丘びくの大僧団をともなって向かわれた。そのころ、雨期が近づいていた。(訳注:インドの雨期は、5月中旬から9月中旬)世尊は比丘たちに、ヴェーサーリー付近で雨安居うあんごに入りなさい、と告げた。一方、世尊ご自身は四十五回目、そして最後の雨安居を、このベールヴァ村で過ごすことに決められた。

しかし、雨安居入りされてまもなく重病にかかられ、死ぬほど激しい、ひどい痛みに見舞われた。世尊は不平不満をこぼされることなく、痛みを耐え忍ばれ、正念と正知をそなえたままでいらっしゃった。そのとき、世尊に、このような考えが浮かんだ。

「わたしが侍者の比丘たちに告げず、そして、比丘の僧団にも知らせず、入滅するのは、わたしにはふさわしくないであろう。わたしは、この重病をしずめ、阿羅漢果に入定にゅうじょうして生命の維持作用(訳注:寿命を保つ潜勢力)で生きる意志を延ばしてはどうであろうか?」

それゆえ、世尊は聖なる決意をされ、阿羅漢果に入定された。そうすることによって世尊の病気は、たちまちやわらいだ。

回復されてまもなく、世尊は部屋から出られ、僧院の日かげに設けられた座に坐られた。そのときアーナンダ尊者が近づき、こういわれた。

「尊師よ、いま拝見すると、お元気で、おすこやかであられます。まさに世尊はご病気でしたので、わたしは自分のからだが重く、硬くなってしまったようで、方角さえ見分けにくい始末でございました。わたしの心は混乱して、ものごとをはっきり理解できませんでした。ですが、尊師よ、わたしは次のように考えて、ほんの少し、安心いたしました。世尊はきっと、比丘の僧団に何らかの教えをのこされることなく、亡くなられることはないであろう、と」

そこで世尊は、比丘僧団における世尊の立場を、こう述べて明確にされた。

「アーナンダよ、いったい比丘僧団は、これ以上何をわたしに期待するのか? わたしは、比丘たちに、側近・周縁の弟子という内外のわけへだてなく、法(ダンマ)を説いてきた。また、わたしには、師の握拳(先生のにぎりこぶし)で保持している秘密など、何もないのだ。

(訳注:師の握拳とは、異教の師には若い時代に誰にも語らず、隠しとおし、死の床で愛弟子のみに語る秘密がある、とされていたこと。師が弟子にもったいをつけ、にぎりこぶしの中に固くにぎりしめたまま、最後に伝授する、といわれていた秘伝)

〈わたしが比丘僧団を指導していこう〉とか、〈比丘僧団はわたしが頼りだ〉などと考える者がいるかもしれない。しかし、アーナンダよ、如来(世尊の自称)はそのようには考えないのだ。そこで、わたしはなぜ、比丘僧団にかかわる教えを、何か遺すべきなのであろうか?

いまやアーナンダよ、わたしは老いぼれ、古び、年とってしまった。わたしの人生の最期のときに到ったのだ。わたしは八十歳である。たとえば一時しのぎの布や皮紐で縛って、何とかもたせて動かしている古い車のように、まさに如来のからだはそのように、一時しのぎで縛って、何とかもたせて動かしている。如来のからだは、世尊が対象すべてに(感情の波動が生起しない)無想であり、想受滅であり、無相の解脱げだつじょう(サマーディ)である阿羅漢果に入定したままにたもっているときにのみ、安らかなのだ。

それゆえ、アーナンダよ、そなたらは自己を島としなければならない。自己をよりどころにして、そのほかをよりどころにしてはならない! そなたらは法を島としなければならない。法をよりどころにして、そのほかをよりどころにしてはならない!

ではアーナンダよ、どのように比丘は、自己を島とし、自己をよりどころにして、そのほかをよりどころにせず、法を島とし、法をよりどころにして、そのほかを何も、よりどころにしないのか?

この教えにおいてアーナンダよ、比丘は、身において身を観察しつづけ、精進して正念と正知をそなえ、この世の貪りと憂いをとりのぞくのです。もろもろの受において、もろもろの受を観察しつづけ、精進して正念と正知をそなえ、この世の貪りと憂いをとりのぞくのです。心において心を観察しつづけ、精進して正念と正知をそなえ、この世の貪りと憂いをとりのぞくのです。もろもろの法において、もろもろの法を観察しつづけ、精進して、正念と正知をそなえ、この世の貪りと憂いをとりのぞくのです。

(訳注:長部22「大念処経」で説かれている涅槃に到る唯一の道、身・受・心・法の四念処)

アーナンダよ、いまでも、あるいはわが亡き後でも、自己を島とし、自己をよりどころにして、そのほかをよりどころにせず、法を島とし、法をよりどころにして、そのほかを何も、よりどころにしない者は誰でも、戒定慧の三重の修行に専念するような者のうち、そうした比丘たちは誰でも、最上の比丘となるであろう」

 

二大弟子の入滅・・・「智慧第一」のサーリプッタと、「神通第一」のモッガラーナ

 

ベールヴァ村での雨安居が終わった後、世尊は村を去り、サーヴァッティ(舎衛城)へ向かって遊行され、ジェータヴァナ僧院(祇園精舎)に滞在された。そのときサーリプッタ尊者が近づいてこられた。礼拝後、尊者が、こう語られた。

「尊師よ、どうか世尊が、どうか無上士むじょうしが、ご同意くださいますように。わたしが最終の涅槃に到るときがまいりました。わたしは寿命力を放棄いたします」

(訳注:後代のアビダンマの説明では、ブッダの成道から入滅までは有余依うよえ涅槃で、煩悩は滅しているが、五蘊は残っていた。無余依むよえ涅槃に到ると五蘊も捨て入滅する。般涅槃はつねはんは完全な涅槃の意で、無余依涅槃と同義)

「そなたは、どこで最終の涅槃に到るのか?」ときくことによって、世尊は同意なさった。

「マガダ国の、ナーラカという村の、わたしが生まれた部屋で」と、サーリプッタ尊者は答えられた。

サーリプッタ尊者がナーラカ村へ去って行く前、世尊は尊者に、比丘たちに最後の法話をしなさい、と求められた。それゆえ、尊者は、驚くべき法教示力のすべてを披露された。尊者の教示力を超えるのは、世尊のみ、なのである。

七日間の旅の後、サーリプッタ尊者はナーラカ村に着いた。尊者の母であるバラモン女性のルーパサーリーは仏教の信者ではなかったが、息子が還俗してまた帰ってきたのだ、と考えて喜んで迎えた。まさにその夜、重病に苦しんでいたが、尊者は、まだ母には法を説いて教えれば覚る見込みがあったために説法し、母を預流果の覚りに確実にみちびいた。しかし、そのあとまもなくサーリプッタ尊者は亡くなり、最終の涅槃に到られた。カッティカ月(現代暦の10~11月)の満月の日であった。

火葬の完了後、チュンダ尊者が遺骨を集めて濾布こしぬのにくるみ、サーリプッタ尊者の托鉢の鉢、外衣といっしょにサーヴァッティに持っていった。世尊はサーリプッタ尊者の徳をたたえ、弟子たちに遺骨を納めた塔(ストゥーパ)をサーヴァッティに建立こんりゅうしなさい、といわれた。

その後、世尊はラージャガハ(王舎城)へ行かれた。このころモッガラーナ尊者は、イシギリ(仙人山)の中腹にあるカーラシラー(黒岩)の森の小屋にひとり住まわれていた。そのとき、裸行者の集団が尊者を暗殺しようとたくらんでいたのである。かれらは、尊者がこれまでさまざまな世界を訪れ、ブッダの有徳の信者は幸せな世界への生まれ変わりを享受きょうじゅする一方、異教の信者たちは善行為を欠いているため不幸な境涯きょうがいで苦しんでいる、という見聞の報告を語った、と信じていたのだ。

かれらは、尊者を暗殺しろ、と一群の山賊を買収した。山賊が尊者を暗殺しにやってきたとき、尊者は神通力で小屋の鍵穴からするりと逃れた。六日間連続で、こうしたことが起きた。しかし七日目に、山賊は尊者を捕まえ、殴って骨が米糠こめぬかのように小粒になるまで粉々にした。山賊は粉々になった尊者を藪の中に投げ捨てた。

しかし、尊者は、まだ亡くなっていなかった。尊者は、意識を取り戻し、みずからの重いからだをひきずるようにしてブッダの御前へ行き、いとま乞いをされた。世尊は、比丘たちに最後の説法をしなさい、と求められた。尊者は多くの神通や神変を披露された。それから尊者は世尊に礼拝され、カーラシラーへ戻られ、最終の涅槃に到られた。カッティカ月の新月の日で、サーリプッタ尊者の入滅から半月後であった。そこで世尊は、モッガラーナ尊者の遺骨を納めた塔(ストゥーパ)をラージャガに建立こんりゅうしなさい、と指示されたのである。

 

寿命力を放棄される

 

その後、世尊は比丘の大僧団とともに、ヴァッジ国のガンジス川の岸辺にあるウッカーチェーラー村へ向かって遊行され、その地で、二大弟子の入滅について説法されたのであった。

ある日の朝のうちに世尊は、托鉢するためヴェーサーリーに入られた。食事後、世尊はアーナンダ尊者とともにチャーパーラ霊廟へ行かれた。そこで日を過ごされるあいだに、世尊はアーナンダ尊者に、こういわれた。

「アーナンダよ、誰であれ、四神足を修行し、実践し、育成し、熟達し、乗り物を乗りこなせるようにして、家の土台のようにして、確立し、堅固にし、まともに責任を担った者は、もし望むなら、寿命の最大期間か、あるいはそれ以上、生きることができます」

(訳注:四神足しじんそくとは、最高智である神通に到るための四つの足=基礎となる美徳で、意欲、精進、意思、観察。四如意足しにょいそくともいわれ、後出の三十七菩提分法の一部)

世尊がこのようにわかりやすく、明快にほのめかされたにもかかわらず、アーナンダ尊者は真意を理解することに失敗した。尊者は世尊に、次のように懇願しなかったのである。

「尊師よ、どうか、世尊が寿命の最大期間、生きられますように。多くの衆生の繁栄と幸福のために、世界への憐れみから、衆生の利益のために、神々と人びとの繁栄と幸福のために」と。

二度、そして三度、世尊は同じことをいわれたのだが、アーナンダ尊者は、世尊の示唆を把握できなかった。ちょうどその瞬間、アーナンダ尊者の心は悪魔(マーラ)にとりつかれ、その影響下にあったのである。

そこで世尊はアーナンダ尊者に、こう告げられた。

「そなたは行ってよい、アーナンダよ。さあ、いまはそなたが好きにしてよいときです」

「かしこまりました」と、アーナンダ尊者は答えられた。それから、座を立ち、世尊に礼拝し、去って、世尊からほど近い樹の根もとに坐られた。

尊者が去ってまもなく、悪魔が世尊のもとへやってきて、一方の側に立ち、こういった。

「世尊はいますぐ、最終の涅槃に到られますように! 善逝ぜんぜいは入滅されますように! いまこそ世尊が入滅なさるときです!」

悪魔がこのようにいうと、世尊は、

しき者よ、そなたの心配には及ばない。ほどなく如来の入滅が起きるであろう。いまから三か月後に、如来は般涅槃(パリニッバーナ)に到るであろう」と、答えられた。

それから世尊は、チャーパーラ霊廟で日を過ごされるあいだ、正念と正知をそなえ、寿命力(アーユサンカーラ)の放棄(オッサッジャナン)を決断された。世尊が決断を下されたとき、猛烈な大地震が起き、雷鳴がとどろき、人びとの心を恐怖で鷲づかみにして、人びとの身の毛はよだち、頭髪が逆立った。

この現象を見て、アーナンダ尊者はふしぎに思い、世尊のもとへ行って大地震が起きた因と縁を尋ねた。世尊は、地震が起きた八つの因を説明された。それから、つづけて世尊は、八つからなるもの(八法)の一連の説法をされた。すなわち、集団の八つの範疇はんちゅうである八会衆(アッタ パリサー)、禅定を通した八つの心の熟達である八勝処(アッタ アビバーヤタナーニ)、解脱の八つの段階である八解脱(アッタ ヴィモーカー)について、である。

このような説法をなさってから、世尊は、大地震が起きる直前、世尊と悪魔のあいだで何が起きたか、語られた。世尊はアーナンダ尊者に、こういわれた。

「さていま、アーナンダよ、まさにこのチャーパーラ霊廟で、世尊は正念と正知をそなえ、寿命力の放棄を決断したのです」

これを聴いたとき、アーナンダ尊者はただちに世尊が前におっしゃったことを思い起こし、世尊に懇願した。

「尊師よ、どうか、世尊が寿命の最大期間、生きられますように。多くの衆生の繁栄と幸福のために、世界への憐れみから、衆生の利益のために、神々と人びとの繁栄と幸福のために」

「もうよい、アーナンダよ! 如来にいま、それを願ってはならない! 如来に懇願するときは、もはや過ぎ去ったのです」

ふたたび、アーナンダ尊者は同じ懇願をくりかえし、同じお答えであった。そして三度目の懇願をくりかえしたとき、世尊は何度もわかりやすく明快にほのめかしたが、アーナンダ尊者が真意を把握するのに失敗して、世尊に、寿命の最大期間、生きるように、と願わなかったのだから、と答えられた。落ち度は、アーナンダ尊者にあったのである。

 

三十七菩提分法

 

アーナンダ尊者の悲しみが和らいだ後、世尊は尊者とともに大林にある重閣講堂へ行かれ、ヴェーサーリー近辺に住んでいる比丘たちすべてを招集して、講堂に集めなさい、と尊者に告げられた。

集まった比丘たちに世尊は、こう説かれた。

「比丘たちよ、わたしはそなたたちに、わたしが直接知った、もろもろの真理を説いてきました。そなたたちは、それらを徹底して、学び、究め、育て、発展させ、それらを不断の実践として実行に移すべきで、そうすればこの出家の聖なる生活(梵行ぼんぎょう)は、長く持ちこたえ、永続するであろう。多くの衆生の繁栄と幸福のために、世界への憐れみから、利益のために、神々と人びとの繁栄と幸福のために。

それでは、それらもろもろの真理とは何か? 三十七菩提分法ぼだいぶんぽう(ボーディパッキヤダンマー)です。すなわち、

 

四念処しねんじょ(チャッターローサティパッターナ)        (身・受・心・法)

四正勤ししょうごん (チャッターローサンマッパダーナー)      (すでに生じた悪を断つ。いまだ生じていない

悪を起こさせない。已に生じた善を増す。未だ生じていない善を起こす)

四神足しじんそく(チャッターローイッディパーダー)        (欲・勤・心・観)

五根ごこん (パンチンドリヤーニ)               (信・勤・念・定・慧)

五力ごりき(パンチャ バラーニ)                (信・勤・念・定・慧)

七覚支しちかくし(サッタ ボーッジャンガー)           (念、択法、精進、喜、軽安、定、捨)

八聖道はっしょうどう(アリヤ アッタンギカ マッガ)    (正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)

 

です。

 

如来が般涅槃を告げる

 

それから世尊は、比丘僧団に般涅槃のときを、このように告げた。

「さあ、比丘たちよ、いま、そなたたちに明らかにします。

『あらゆる条件づけられたものごとは、滅びる性質をもちます。不放逸に精進しなさい!』

如来の入滅はほどなく起きます。いまから三か月後に、如来は般涅槃に到るであろう」

これが世尊の告げられたことであった。無上の調御丈夫、天人師はこのように告げられ、さらに次のように述べられた。

 

「わが年齢は熟した。わが余命は、いくばくもない。

そなたたちを後に残し、わたしは去るであろう。わたしはみずからに帰依したのだ。

不放逸に励み、念をそなえよ! 戒をたもて、おお、比丘たちよ!

しっかりと統一した冥想で、心を観察しつづけよ!

この法と律において精進する者は誰でも

輪廻転生の生まれ変わりを脱して、あらゆる苦の終わりをなすであろう」

 

高貴な巨象の眺め

 

朝になって、世尊は着衣をととのえ、托鉢の鉢と外衣をもって、ヴェーサーリーへ托鉢に行かれた。托鉢を終えて食事された後、そこを去るにあたって、世尊はふり返られ、巨象が眺めるように、ヴェーサーリーを眺められた。そのとき世尊は、アーナンダ尊者に、こういわれたのである。

「アーナンダよ、これが如来のヴェーサーリーへの最後の眺めとなるであろう。さあ、アーナンダよ、バンダ村へ行こう!」

「かしこまりました、尊師よ」と、アーナンダ尊者が応じられた。それから世尊は、比丘の大僧団をともなって、バンダ村へ旅された。そして、バンダ村に滞在中、世尊は比丘たちに、次のように説かれた。

「比丘たちよ、四つのものごとを理解せず、洞察の智慧を持たなかったことを通して、そなたたちも、わたしも、このように長いあいだ、輪廻の生存をさまよわなければならなかったのです。四つとは何か? 聖者の戒、聖者の定、聖者の慧、そして聖者の解脱です。しかし、これらの四つのものごとを理解し、洞察の智慧を持ち、生存への渇愛を断ち、生存にみちびく渇愛を滅して、もはや、生まれ変わりはないのです」

 

四大教法(マハーパデーサ)の教え

 

バンダ村に御心のままの長さ、住まわれた後、世尊は、比丘の大僧団をともなって遊行され、ハッティ村へ、アンバ村へ、ジャンブ村へ、さらにそこから、ボーガ市へ向かわれ、アーナンダ霊廟れいびょうに滞在された。

世尊がそこに滞在されているあいだに、世尊は比丘たちの大会衆に、四つの大教法を説かれた。

「この教えにおいて、比丘たちよ、ひとりの比丘がたとえば、このようにいったとします。

『わたしは、この説明を世尊ご自身の口から直接聴いて、受けとったのだ。これが法(ダンマ)である。これが律(ヴィナヤ)である。これが師の教えである』と。

あるいは、ひとりの比丘がたとえば、このようにいったとします。

『ある僧院に、比丘の僧団が住んでいて、上首にはひとりの長老がなっている。わたしは、この説明をその僧団の口から直接聴いて、受けとったのだ。これが法(ダンマ)である。これが律(ヴィナヤ)である。これが師の教えである』と。

あるいは、ひとりの比丘がたとえば、このようにいったとします。

『ある僧院に、聖典に精通し、法・律・戒本(波羅提木叉はらだいもくしゃ)に堪能である碩学せきがくの長老比丘が、たくさん住んでいる。わたしは、この説明をそれら長老比丘たちの口から直接聴いて、受けとったのだ。これが法である。これが律である。これが師の教えである』と。

あるいは、ひとりの比丘がたとえば、このようにいったとします。

『ある僧院に、聖典に精通し、法・律・戒本(波羅提木叉はらだいもくしゃ)に堪能である碩学せきがくのひとりの長老比丘が住んでいる。わたしは、この説明をその長老比丘の口から直接聴いて、受けとったのだ。これが法である。これが律である。これが師の教えである』と。

比丘たちよ、その比丘のことばに、同意すべきでも、拒否すべきでも、ありません。同意することも拒否することもなく、そのようなかれのことばや発言は、徹底的に検討して調べるべきなのです。それから経典と照合して、律と比較対照してみるべきです。

もし、比較対照してみたとき、経典と調和もせず、律と合致しなければ、そのときそなたたちは、次のように結論してよいのです。『たしかに、これは世尊のことばではない。その比丘、あるいは比丘僧団、あるいは長老たち、あるいはその長老によって、誤って理解されたものである』と。そしてそれゆえ、そなたたちは、それを拒否すべきなのです。

しかしながら、もし、比較対照してみたとき、経典と調和し、律と合致するなら、そのときそなたたちは、次のように結論してよいのです。『たしかに、これは世尊のことばである。その比丘、あるいは比丘僧団、あるいは長老たち、あるいはその長老によって、正しく理解されたものである』と。そしてそれゆえ、そなたたちは、それに同意すべきなのです。

比丘たちよ、そなたたちは、この四つの大教法をよく銘記すべきです」

 

ブッダの最後の食事

 

それから世尊はボーガ市に御心のままの長さ、住まわれた後、比丘の大僧団をともなってパーヴァーへ向かわれ、鍛冶職人の子チュンダのマンゴー林に滞在された。

世尊が自分のマンゴー林に到着された、という報せをきいて、チュンダはただちに世尊のもとへ近づいて行き、礼拝した。世尊はかれに法話をして励まし、法の実践でかれを喜ばせた。法を聴いた後、かれは世尊を、比丘僧団とともに、次の日、托鉢食の布施を献げることに招待した。世尊は、沈黙して同意された。

そこで次の日、チュンダは、スーカラ・マッダワという特別料理をふくむ豪華な食べ物を用意した。(原注:長部経典の註釈書によると、スーカラ・マッダワとは柔らかい豚肉のことで、若すぎず年寄りすぎない野豚のなま肉・刺し身であるが、世尊のために殺したものではない=パヴァッタマンサ。注釈者のなかに、スーカラ・マッダワとは、柔らかいご飯に、牛から得られる五種のさまざまな産品を添えた料理と解釈する師がいる一方、そのほかの師は、ラサーヤナと呼ばれる不老長寿薬を混合した美味で栄養価の高い料理である、といっている)

食事が出されたとき、世尊はチュンダに、スーカラ・マッダワは自分だけに、そのほかの食べ物は比丘僧団に、出してください、と告げられた。世尊は食事をされた後、チュンダに、スーカラ・マッダワの残りは穴に埋めるように、と指示された。世尊は、ほかの誰も消化できる者はいない、とご覧になったのである。しかし、食後、急性の赤痢が世尊を襲い、ほとばしる出血をともなった激しい痛みに見舞われた。世尊は、この痛みに、不平不満をいうことなく、正念と正知をそなえ、耐え忍ばれたのであった。

 

クシナーラーへの旅の途上で

 

病いのせいでからだがとても弱っていたにもかかわらず、世尊はクシナーラーへ比丘の大僧団とともに向かう最後の旅をつづけることに決められた。

その途上で、世尊は道からそれて、樹の根かたに近づかれた。そこに行かれて、世尊は設けられた座に坐られ、アーナンダ尊者に、飲み水をもってきてほしい、と頼まれた。とても疲れ、のどが乾いていたからである。ちょうどそのとき、五百台の車が小川を渡ったばかりで、川の水が泥で濁っていた。そこで、アーナンダ尊者は世尊に、こう申し上げた。

「尊師よ、さほど遠くないところにカクッター川があります。水が澄んでいて、気持ちよく、冷たく、泥で濁っていません。それに、平らで感じのよい岸辺もあります。世尊はそこで水を飲まれ、おからだを冷やせるでしょう」

ふたたび世尊が頼み、同じ答えであった。三度目の世尊の頼みの後、アーナンダ尊者は、「かしこまりました、尊師よ」と、同意された。そして、アーナンダ尊者が小川に行くと、世尊の神通力によって、浅瀬の水が澄んで、清らかになり、濁りがなくなっていた。そこで尊者は水をすくい、托鉢の鉢に入れた。尊者は世尊のもとへ戻り、いま起きたことを申し上げ、こう付け加えた。

「さあ、世尊は水をお飲みください! 善逝は水をお飲みください!」

そして、世尊が水を飲まれたのであった。

 

マッラ族の王子プックサの帰依と金色の衣

 

世尊が水を飲まれた後、まだ樹の根かたに坐られているあいだに、アーラーラ・カーラーマの弟子であるマッラ族の王子プックサが、クシナーラーからパーヴァーへ向かっている途上で、世尊を見て、近づいてきた。プックサは自分の師について驚くべきことがあった、と述べたのである。かつて師は道ばたの樹の下で冥想して日を送り、深い集中のなかで坐っていた。しかし、師のすぐ近くをつぎつぎ通り過ぎた五百台の車の隊商を、師は見ることも聞くこともなく、気づいて目覚めていたのに、師の外衣はすっぽりほこりをかぶった、という。

この話のすぐ後に、世尊はプックサにみずから経験したことを語られた。あるとき、世尊がアートゥマーの近くの籾殻堂もみがらどうに住まわれ、深い冥想に入られているあいだに、土砂降りの大雨に見舞われ、雷鳴が轟き、稲妻が走り、つぎつぎ落雷したことがあった。そのとき、農夫の兄弟二人と牛四頭が籾殻堂の近くで雷に打たれた。土砂降りの大雨に見舞われ、雷鳴が轟き、稲妻が走り、つぎつぎ落雷しているあいだに、世尊は気づいて目覚めていたのだが、それを見ることも聞くこともなく、静かな状態のままでいた、というのである。

プックサは世尊がそのようなとき、静かな状態のままでいた、という話に強い印象を受け、仏法僧の三宝に生涯、帰依することにしたのであった。これにつづけてプックサは、一対の金色の衣を世尊に献げた。しかし、世尊はプックサに、そのうちの一つはご自身に、そしてもう一つはアーナンダ尊者に、と頼まれた。

プックサが立ち去ってまもなく、アーナンダ尊者は、その一対の金色の衣を世尊の御身体の上にかけられた。驚いたことに、金色の衣が世尊の御身体の上にかかると、金の輝きがまったく消えたのである。これを目の当たりにして、尊者は感嘆の声をあげた。これについて世尊は、こう説明された。如来(タターガタ)の皮膚の色がなみはずれて透きとおり、輝く場合が二つある、すなわち、最上の正覚を完成する夜と、般涅槃(パリニッバーナ)に到る入滅の夜である、と。

世尊はそのとき、まさに今夜の後分(訳注:初・中・後に三分される夜の最後の更)に、クシナーラーに近いマッラ族のサーラ林の沙羅(サーラ)双樹のあいだで、如来(タターガタ)は般涅槃(パリニッバーナ)に到るであろう、と告げられたのであった。

 

二つの例外的な布施食

 

それから、世尊はカクッター川へ向かわれ、川に入って最後の沐浴をされ、川の水を飲まれた。その後、世尊はマンゴー林へ行かれ、そこでひと休みされ、獅子(ライオン)が眠るように右脇を下にして横になられた。チュンダカ尊者の敷かれた外衣の上に、世尊は臥されたのである。

そこで休まれているあいだに、世尊はアーナンダ尊者に、こう告げられた。

「アーナンダよ、誰かが鍛冶職人の子チュンダに、このようにいって後悔させるかもしれない。『おまえには利得がない、チュンダよ。おまえが差し上げた最後の食事をされた後に、如来(タターガタ)は亡くなられたのだから、おまえには功徳がない』と。いま、そのような後悔は、鍛冶職人の子チュンダから、このようにいって、とり除かねばならない。『そなたには利得がある、チュンダよ。そなたが差し上げた最後の食事をされた後、如来(タターガタ)は亡くなられたのだから、そなたには偉大な功徳がある。チュンダよ、これは世尊ご自身の口で、このように語られたのを、わたしが聴いて、知ったことだ。

〈二つの托鉢食には、いずれもひとしい果報があり、結果があり、ほかの托鉢食より、はるかに大きな功徳があるのです。その二つとは何か? それを食べた後に如来が最上の正覚に到る托鉢食と、それを食べた後に如来が無余依むよえの涅槃(ニッバーナ)に到る托鉢食です。これら二種類の托鉢食にはほかの托鉢食より、はるかに大きな果報と功徳があるのです〉と。

これらのことばは世尊ご自身の口で、このように語られたのを、わたしが聴いて、知ったことだ。まさしく、鍛冶職人の子チュンダは、長寿、容色、幸福、名声、天、大きな力をもたらす善業ぜんごうを積んだのである』と。

このようにして、鍛冶職人の子チュンダの後悔は、とり除かねばならないのです」

 

沙羅(サーラ)双樹に到着する

 

ひと休みされた後、世尊は比丘の大僧団とともに最後の旅をつづけられ、ヒランニャワティー川を渡り、クシナーラー近郊にあるマッラ族のサーラ林の沙羅双樹まで行かれた。最後の安息の地である。かくして世尊はパーヴァーからクシナーラーまで、三ガーヴタ(四分の三ヨージャナ)の距離の最後の旅をされたのである。その間、衰弱と病いのために二十五回の休止を余儀なくされたのであった。

そこに着くとすぐ、世尊はアーナンダ尊者に、沙羅双樹のあいだに頭を北にして寝床をつくってほしい、と頼まれた。寝床が用意されると、世尊は獅子が眠るように右脇を下にして、右足の上に左足を少しずらして、正念と正知をそなえて、横になられた。

まさにそのとき、沙羅双樹は満開になり、たくさんの花がはじけるように、ぱっとひらいた。まだ開花の時期ではないのに、時ならぬ満開であった。それらの花々が、如来を供養してその御身体おからだにふりそそぎ、ふりまかれた。天上の曼荼羅華まんだらげ(原注:パーリ語 mandārava(マンダーラヴァ)、ラテン語 Erythrina(エリスリナ) fulgens(フルゲンス))と栴檀せんだんの粉末もまた空中からふってきて、如来を供養してその御身体にふりそそぎつづけ、その間、天上の音楽と歌声が、如来を供養して空中からゆるやかなリズムで奏でられたのである。

この天上の敬慕礼拝ぶりを見て、世尊はアーナンダ尊者に、こういわれた。

「アーナンダよ、如来は、このようなやりかたで尊崇そんそう、尊重、敬愛、崇敬、崇拝されるべきではないのです。しかし、どのような比丘、比丘尼、男性信者(ウパーサカ)(優婆塞うばそく)、女性信者(ウパーシカー)(優婆夷うばい)であっても、真理(ダンマ)にしたがって実践しながら生き、正しく真理を実践し、真理とともに完全に一体化して歩むのなら、男女の別なく、如来をすべてのなかの最上の供養で、尊崇、尊重、敬愛、崇敬、崇拝しているのです。それゆえ、アーナンダよ、『われらは真理にしたがって実践しながら生き、正しく真理を実践し、真理とともに完全に一体化して歩んでいこう』と、そなたらは修行すべきなのです」

ちょうどそのとき、世尊の前に立って世尊を扇いでいたウパヴァーナ尊者に対して、世尊は、脇へ退くように、と命じられた。アーナンダ尊者が世尊に、尋ねられた。

「尊師よ、ウパヴァーナ尊者は長いあいだ世尊の侍者としてお側で仕え、お世話に勤められてきました。それなのに、この最後の時間になって、世尊は、脇へ退くように、と命じられました。その理由は何でしょうか?」

「アーナンダよ、一万世界の神々が、如来に会うために遠くから大勢きているのです。これらの威力ある神々で、マッラ族のサーラ林の周囲十二ヨージャナにわたって、髪一本通すほどのわずかなすきまもなく、立錐の余地がないのです。かれらは、威力あるウパヴァーナ比丘が立ちはだかっているため視界がさえぎられ、不平をこぼし、不満をもっているのです。そのため、わたしはウパヴァーナに、脇へ退くように、と命じ、わたしの前に立ちはだからないようにさせたのです」

「そして、アーナンダよ、心が大地に縛られた空の神々と地の神々は、泣き叫び、髪をふり乱し、両手を突き上げ、身を投げ落とすように倒れ、のたうって、こう嘆いているのです。『あまりにも早く、世尊は般涅槃に到られ、入滅される! あまりにも早く、善逝は般涅槃に到られ、入滅される! あまりにも早く、智慧の眼が世界から消滅されてしまわれる!』

しかし、アーナンダよ、感覚的な愛着からはなれている神々は、正念と正知をそなえて、『諸行は無常である。どうして、このまま変わらずに常恒でありえようか?』と、耐え忍べるのです」

 

四大霊場

 

それから、アーナンダ尊者が、こうもいわれた。

「尊師よ、これまでは、さまざまな地で雨安居を終えた比丘たちが世尊にお目にかかって礼拝するのが習慣でございました。そのような折には、そうした比丘たちを歓迎し、われらに元気を与えてくれる比丘たちと会うことができました。しかし尊師よ、世尊が亡くなられてしまいますと、われらはそうした比丘たちと、もはや会うこともできません」

これについて世尊は、このように指示されたのである。

「アーナンダよ、信心のあつい者たちが巡礼するのにふさわしく、その地に感動して敬虔けいけんな目覚めを呼び起こす四つの場所があります。それは、

 

(1)ルンビニー   : 如来誕生(降誕ごうたん)の地

(2)ブッダ・ガヤー : 如来が無上の正覚(成道じょうどう)に到られた地

(3)バーラーナシー近くの鹿野苑の仙人集会所(イシパタナ) : 如来が初転法輪しょてんぽうりん(最初の説法)をされた地

(4)クシナーラー  : 如来が究極の安らぎで、五蘊の完全な滅尽である般涅槃に到られた地

 

です。そして、アーナンダよ、これらすべての巡礼で、もしこれらの霊廟の巡礼の旅の途中で死んでも、死後、身体の崩壊するそのときに、天上界など善趣(訳注:現世で善行為をした者がおもむくところ)に生まれ変わります」

 

アーナンダ尊者の質問

 

それから、アーナンダ尊者が世尊に、一連の質問をされた。

「尊師よ、われらは女性に対して、どのように行動すべきでしょうか?」

「見るな、アーナンダよ!」

「しかし、尊師よ、もしわれらが女性を見たとき、どのようにふるまうべきでしょうか?」

「話すな、アーナンダよ!」

「しかし、もしわれらが女性と話したとき、どのようにふるまうべきでしょうか、尊師よ?」

「そなたたちは正念をたもつべきです、アーナンダよ!」

アーナンダ尊者は、さらに質問しつづけた。

「尊師よ、われらは如来のご遺体に対して、どのようにすべきでしょうか?」

「アーナンダよ、そなたらは如来の遺体供養にはかまうな! そなたたちは最高の目標に向かって精進すべきです。涅槃に到達することに専念しなさい! みずからのために、たゆまず、熱心に、怠けることなく、実践しなさい! 如来に堅固な信を抱いている賢明な王族・武士、バラモン、在家の資産家がいます。かれらが如来の遺体供養をするであろう」

 

アーナンダ尊者の嘆きを慰める

 

この一連の問答後、如来が般涅槃に到られる、まさにその日のことを考えて、アーナンダ尊者は悲嘆にくれた。それから宿舎に入り、戸口の側柱に寄りかかって、泣きながら立っていた。

「ああ! わたしは、いまだに学んでいる身(有学うがく(セッカ))だ。やらなければならないことがある。そして、わが師は、わたしに、これまでとても憐れみをかけてくださってきたが、いまや最終の涅槃に到られようとしているのだ」

アーナンダ尊者がお側の近くにいないことがわかって、世尊はあるひとりの比丘に、尊者を呼んできなさい、と告げ、尊者を慰められた。

「もうよい、アーナンダよ! 嘆くな! 泣くな! わたしは、すでにそなたに、あらゆる愛しいこと、好ましいことには、われらとの別れがあり、変わりゆくのだ、と説きはしなかったか? だから、どうして、アーナンダよ、誕生し、生成し、合成し、そして衰滅しなければならないものが、衰滅すべきではない、ということがありえようか? それは不可能です。アーナンダよ、そなたは長いあいだ如来に忠実に仕え、側にいるときも不在のときも、無量の慈悲をもって身・語・意の行為で如来の利益と安らぎのために世話をしてくれた。そなたは多くの功徳を積んだのです、アーナンダよ。不放逸に精進しなさい、そうすれば、そなたはすみやかに煩悩の汚れがない者となるであろう」

世尊は、アーナンダ尊者が賢者であり、世尊に面会にきた比丘、比丘尼、男性信者(ウパーサカ)、女性信者(ウパーシカー)たちを巧みに調整して手はずを決める、と誉められた。世尊はまた、アーナンダ尊者には四つのふしぎな、すばらしい特質がある、と賞賛された。

(訳注:四つの特質とは、尊者に会っただけで満足し、説法を聴くと心が満たされ、聴き飽きることはなく、尊者が沈黙するともっと聴きたいという気になることをさす)

世尊がみずからの入滅場所選びに関連して「マハースダッサナスッタ(大善見経)」(長部17)を説かれた後、世尊はアーナンダ尊者にクシナーラーへ行くように命じ、クシナーラーのマッラ族に、夜の後分に如来は最終の涅槃(ニッバーナ)に到るであろう、と告げられたのであった。アーナンダ尊者によって伝えられたしらせをきいたマッラ族の王族青年と、その子女、義理の娘、妻女たちは、悲嘆にくれ、苦悩と悲哀にうちのめされた。かれらはサーラ林に行って、世尊に最後の礼拝をしたのである。

 

スバッダ・・・ブッダ最後の直弟子じきでし

 

ちょうどそのころ、遍歴行者のスバッダが、クシナーラーに滞在していた。かれは、ゴータマ行者が夜の後分に最終の涅槃に到るであろう、と聞いて、こう考えた。

「わたしは、長老の尊者、遍歴行者の師たちから、このように聞いたことがあった。『阿羅漢であり、正自覚者である如来たちが、いつか、まさに極めて稀に、世に現れる』と。そして今夜、夜の後分に、ゴータマ行者が最終の涅槃に到るであろう、というのだ。いま、わが心中には疑いが生じている。そして、わたしはゴータマ行者こそ、わが疑いをとり除ける教えを説ける方なのだ、と確信している」

そこで即刻、スバッダはサーラ林に行って、アーナンダ尊者に近づき、自分が考えたことを話して、こういった。

「友、アーナンダよ、どうかわたしを、ゴータマ行者に会わせてください!」

しかし、アーナンダ尊者は、こう返答した。

「おやめください、友、スバッダよ! 如来を煩わせないでください! 世尊は疲れきっているのです」

スバッダはふたたび、会わせてください、と頼み、さらに三たび、くりかえしたが、アーナンダ尊者は同じように答えて断った。このアーナンダ尊者とスバッダの押し問答を漏れ聞いて、世尊はアーナンダ尊者を呼ばれた。

「もうよい、アーナンダよ! スバッダのじゃまをしてはいけない! 如来にかれを会わせなさい! スバッダがわたしにきこうとしていることは、何であっても、完全な智慧を望んで探究するために尋ねようとしているのです。わたしを煩わせるためではないのです。そして、かれの質問へのわたしの解答は、何であっても、かれはすぐさま理解するであろう」

そこで、アーナンダ尊者はスバッダに、こういった。

「お行きなさい、友、スバッダよ! 世尊がお許しになられました」

スバッダは、世尊と親しくあいさつを交わした後、一方に坐った。

「おお、ゴータマよ、大きな集団や信者を統率し、宗派の師であり、教団の創始者として誉れ高く、有名で、多くの人びとに聖者として評価されている行者やバラモンがいます。プーラナ・カッサパ、マッカリ・ゴーサーラ、アジタ・ケーサカンバラ、パクダ・カッチャーヤナ、サンジャヤ・べーラティプッタ、ニガンタ・ナータプッタです。(訳注:総称して「六師外道」と呼ばれる)かれらは全員が、みずからそう称しているように、真理を覚ったのでしょうか、あるいは誰も覚っていないのでしょうか、あるいはそのうち誰かは覚り、誰かはそうでないのでしょうか?」

「もうよい、スバッダよ! かれら全員が、みずからそう称しているように、真理を覚ったのか、あるいは誰も覚っていないのか、あるいはそのうちの誰かが覚り、誰かはそうでないのか、そんなことは、かまわなくてもよいのです。わたしはそなたに真理を説くであろう。わたしがこれから説くことを、注意深く聴きなさい!」

「かしこまりました、尊師よ」と、スバッダは応答した。

「スバッダよ、いかなる法と律においても、聖八正道がなければ、そこには覚りの第一階梯(預流(ソーターパッティ))の行者が認められることはなく、第二階梯(一来(サカダーガーミ))の行者も、第三階梯(不還(アナーガーミ))の行者も、第四階梯(阿羅漢(アラハッタ))の行者も、認められることがないのです。いかなる教え(ダンマ)と律(ヴィナヤ)においても、聖八正道があれば、そこには覚りの第一階梯(預流(ソーターパッティ))の行者が認められ、第二階梯(一来(サカダーガーミ))の行者も、第三階梯(不還(アナーガーミ))の行者も、第四階梯(阿羅漢(アラハッタ))の行者も、認められるのです。

さて、スバッダよ、このわたしの法と律において、そこには聖八正道が存在し、そしてここに、まさしく、覚りの第一階梯(預流)の行者も、第二階梯(一来)の行者も、第三階梯(不還)の行者も、第四階梯(阿羅漢)の行者も、いるのです。ほかのもろもろの異教では、ほんとうの行者を欠いています。そして、スバッダよ、もし万一こうした比丘たちが真理の教えに住して、正しく実践すれば、世界は阿羅漢たちを欠くことがないであろう。

スバッダよ、わたしは二十九歳で世を捨てて出家し、何が善なのか、追求する行者になりました。そしていま、出家してから五十年余が過ぎました。この真理の教えの外側には、出世間の聖なる道にみちびく洞察を、たとえ部分的にでも、修養する行者は、ただのひとりもいません。そこには、覚りの第一階梯(預流)の行者も、第二階梯(一来)の行者も、第三階梯(不還)の行者も、第四階梯(阿羅漢)の行者も、いないのです。ほかのもろもろの異教では、ほんとうの行者を欠いています。けれども、もし万一こうした比丘たちが真理の教えに住して、正しく実践すれば、世界は阿羅漢たちを欠くことがないであろう」

スバッダがこれを聴いたとき、こういったのである。

「とてもすばらしい、尊師よ、とてもすばらしい、尊師よ! 法が、世尊によって、多くのやりかたで明らかにされました。まるで、倒されたものを起こすかのように、覆い隠されたものをとり除くかのように、道に迷ってしまった者に道を教えるかのように、見える眼をもっている者に暗闇の中で灯火ともしびかかげるかのように。わたしは、世尊に、法に、比丘僧団の三宝に帰依します。尊師よ、どうか、世尊のもとで出家して、具足戒を受けられますように」

「スバッダよ、もし、ほかのもろもろの異教のすでに信者である者が、出家したいと望み、法と律の具足戒を受けたいと望むなら、四か月のあいだ、見習いとして指導監督下で修行してみなければならない。その四か月の終わりに、もし、比丘たちが満足すれば、かれの出家は認められ、比丘僧団に入ることが承認され、ひとりの比丘としての身分に引き上げられるのです。しかしながら、人によって違いがあることも、わたしは認めます」と、世尊は述べられた。

「尊師よ、もし、そうであるなら、わたしは、見習いとして指導監督下で、たとえ四年間であっても、修行する覚悟があります。そして、その四年間の終わりに、もし、比丘たちが満足されましたら、かれらが、わたしの出家を許すようにしてくださり、比丘僧団に入ることを承認していただいて、ひとりの比丘の身分に引き上げてください」

ところが、世尊はアーナンダ尊者に、このように命じられたのである。

「そうであるなら、アーナンダよ、スバッダを比丘僧団に入れてあげなさい!」

「かしこまりました、尊師よ」と、アーナンダは応答した。

そのとき、スバッダはアーナンダ尊者に、こう申し上げた。

「これはあなたにとって利得ですよ、友、アーナンダよ、あなたにとって、まさに大きな利得ですよ、なぜなら、あなたは世尊によって灌頂かんじょうを受けられた。そして世尊の面前で、親密な弟子として灌頂されたのだから」

(訳注:灌頂とは、頭に水をそそぐこと。弟子のアーナンダ尊者が、師の世尊に代わって、スバッダの頭に、水瓶から水をかけ、出家得度の儀式をしたことを暗示している)

そこで、遍歴行者のスバッダは、出家を受け入れられ、具足戒を受けて、世尊の御もとで、ひとりの比丘として比丘僧団に入ることを認められた。そして、世尊から適切な冥想のしかたを教わった。その後、スバッダ尊者は、遠離の地を探し、冥想実践に入り、つねに正念をたもち、たゆまず精進し、涅槃に到達する道へ心を向けた。そしてほどなく、スバッダ尊者は阿羅漢に到達したのであった。かれは世尊の御もとで阿羅漢に到達した最後の直弟子となったのである。

 

ブッダの最後のことば

 

世尊は、アーナンダ尊者に、こう告げられた。

「アーナンダよ、そなたは、このように考えるかもしれない。『師の指示が途絶えてしまった。いま、われらには、師がいない』と。しかし、そなたたちは、そのように見なすべきではないのだ。なぜなら、わたしが、そなたたちに教え、説いてきたのは、わたしの亡き後、法と律がそなたたちの師となるであろう、ということです。

いまに到るまで、比丘たちは互いに『友よ』(āvuso(アーヴソー))ということばで呼び合っているが、わたしの亡き後は、そうすべきではないのです。年長の比丘は新参の比丘に、名とか姓で、あるいは『友よ』(āvuso)と呼ぶべきです。そして、新参の比丘は年長の比丘に『尊師よ』(Bhante(バンテー))とか、あるいは『具寿よ(訳注:寿を具する、つまり長命の方という意)』(āyasmā(アーヤスマー))と呼ぶべきです。

アーナンダよ、もし望むのであれば僧団は、わたしの亡き後、ささいな、そして、小さな戒律は、廃止してもよいのです。

そして、アーナンダよ、わたしの亡き後、チャンナ尊者には梵罰ぼんばつ(brahmadaṇḍa(ブラフマダンダ))を科すべきです」

(訳注:チャンナは、ゴータマ菩薩の降誕と同時に生まれ、御者として、愛馬カンタカとともに菩薩の出家のとき、アノーマー川まで見送った。のちに自分も出家したが、比丘僧団のなかでは協調性に欠け、いさかいを起こした、とされている)

「しかし、尊師よ、梵罰とは何でしょうか?」

「チャンナ尊者がやりたいこと、言いたいこと、が何であろうとも、比丘たちからはかれに、話しかけるのも、教誡するのも、教示するのも、すべきではない、ということです」

それから、世尊は比丘たちに、このように説かれた。

「比丘たちよ、ブッダについて、法について、僧団について三宝、あるいは道について、実践のしかたについて、疑いや不確かさをもっている比丘がいるかもしれない。いま、質問しなさい、比丘たちよ!『われらは師の面前にいたのに、師の御もとで質問することに失敗した』と考えて、あとで悔やんではならない」

これが説かれたとき、比丘たちは沈黙していた。ふたたび、三たび、世尊はくり返されたが、それでもまだ比丘たちは沈黙していた。そこで、世尊は、こういわれた。

「おそらく、比丘たちよ、そなたたちがわたしに質問しないのは師への尊敬からなのかもしれません。それでは、比丘たちよ、ひとりの友が別の友に話すように質問しなさい!」

しかし、それでも比丘たちは沈黙していた。

そこで、アーナンダ尊者が世尊に、こう申し上げた。

「すばらしいことです、尊師よ、すごいことです! わたしは、この比丘の集まりのなかで、ひとりの比丘も、ブッダについて、法について、僧団について、あるいは道について、実践のしかたについて、疑いや不確かさをもっている者がいない、と確信をもちました」

「そなたは、アーナンダよ、信念から語っています。しかし、如来は、この比丘の集まりのなかで、ただのひとりの比丘も、ブッダについて、法について、僧団について、あるいは道について、実践のしかたについて、疑いや不確かさをもっている者はいない、と知っているのです。アーナンダよ、これら五百人の比丘たちのうちの覚りが最少の者でも預流者であって、堕落しない者ですが、しかし、確実に正覚へ趣く者なのです」

それから、世尊は比丘たちに、最後の教えを与えられた。

 

Handaハンダ dāniダーニ, bhikkhaveビッカヴェー, āmantayāmiアーマンタヤーミ voヴォー,

Vayadhammāヴァヤダンマー saṅkhārāサンカーラー,

Appamādena アッパマーデーナ sampādethaサンパーデータ.”

 

“さあ、比丘たちよ、いま、そなたたちに告げよう。

諸行は、生じ滅し移ろいゆくのが本質です。

怠ることなく不放逸に、励みなさい!”

 

ブッダの般涅槃

 

世尊が最後のことばを述べられた後、全サーラ林は、深い静寂に沈んだ。世尊は第一禅定(ジャーナ)に入られた。それから出られて、第二、第三、第四の禅定に入られた。それから第四禅定から出られて、空無辺処定(アーカーサーナンチャーヤタナ)、識無辺処定(ヴィンニャーナンチャーヤタナ)、無所有処定(アーキンチャンニャーヤタナ)、非想非非想処定(ネーワ サンニャー ナーサンニャーヤタナ)に、それぞれ入られてから出られて、そして想受滅定(サンニャーヴェーダイタ ニローダ)に到達され、そのなかに入られていた。

アーナンダ尊者は、世尊が呼吸されていないのに気づき、驚いてアヌルッダ尊者に、こういった。

「尊者よ、世尊は入滅されました」

「いいえ、友、アーナンダよ、尊師は入滅されていません。想受滅定に到達していらっしゃるのです」

それから世尊は、想受滅定から出られ、非想非非想処定に入られた。そして、それから出られ、無所有処定、識無辺処定、空無辺処定、第四禅定、第三禅定、第二禅定、第一禅定に、それぞれ入られてから出られた。

そして、それからふたたび、世尊は、第一禅定、第二禅定、第三禅定、第四禅定に、それぞれ入られてから出られ、最終の涅槃に到られた。

世尊が最終の涅槃に到られたのと同時に、身の毛がよだち、鳥肌が立つ、大きな恐ろしい地震が起きた。

紀元前543年のウェーサーカー月(現代暦の五月ごろ)の満月の夜の後夜、世尊は八十歳で入滅され、無余依涅槃に到られたのである。

68話へ続く

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南伝ブッダ年代記

Episode 67  Mahāparinibbāna

In this chapter, we shall follow the continuation of the Blessed
One’s end journeys from Beluvagāmaka to Kusinārā.

After staying at Ambapālī’s mango grove for as long as He wished, the Blessed One went to Beluvagāmaka, near Vesālī, with a large community of bhikkhus. At that time, the rainy season was approaching. The Blessed One advised the bhikkhus to take up residence for the rains in the neighbourhood of Vesālī while the Blessed One Himself decided to spend His forty-fifth—His last rains-residence—at this village.
But, soon after the Blessed One took up His residence for the rains, He was afflicted with a very severe sickness that brought about violent and excessive pains near unto death. He bore the pain without complaint and remained mindful with full understanding. Then, a thought occurred to Him thus: “It would not be proper for Me to pass away without addressing My attendant bhikkhus and without taking leave
of the Saṁgha of Bhikkhus. Suppose I subdued this grave affliction and prolonged My will to live by entering into the Fruition attainment of Arahantship of the life-maintaining process (jīvitasaṅkhāraṁ)?” Accordingly, the Blessed One made a solemn wish and entered into that attainment. By doing so, His sickness was immediately allayed.
Soon after His recovery, He came out from His room and sat on a seat made ready at the shade of the monastery. Then, the Venerable Ānanda approached Him and said: “Lord, now I see the Blessed One in comfort and in good health. Indeed, when the Blessed One was sick, I felt as if my body were heavy and rigid. I could hardly distinguish between directions. My mind was in a fuddle and was unable to comprehend things clearly. However, Lord, I took a little comfort from the
thought that the Blessed One would not pass away without leaving any
instruction concerning the Saṁgha of Bhikkhus.”
Then, the Blessed One clarified His position in the Saṁgha of Bhikkhus, saying: “Ānanda, what more does the Saṁgha of Bhikkhus expect of Me? I have taught the Dhamma to the bhikkhus without discriminating them as the inner circle or outer circle of disciples. Nor do I keep the Teaching back as if there were some secrets held in the closed fist of a teacher. There might be someone who thought thus:
‘I shall lead the Saṁgha of Bhikkhus’ or ‘The Saṁgha of Bhikkhus depends on me’, then it would be for such a person to leave instruction concerning the Saṁgha of Bhikkhus. But Ānanda, the Tathāgata does not think like that. Why then should I leave
instruction concerning the Saṁgha of Bhikkhus?”
“Now Ānanda, I am decrepit, old, advanced in years, and have reached My last stage of life. I am eighty years of age. Just as an old worn-out cart is made to carry on with the help of makeshifts, even so is the Tathāgata’s body made to carry on with the help of makeshifts. For the Tathāgata’s body is only at ease when He remains dwelling in the Fruition attainment of Arahantship of the signless mind-deliverance, with non-attention to all objects and with cessation of certain kinds of feeling.”
“Therefore, Ānanda, you should make yourself your own island. Let yourself be your refuge and not let anyone else be your refuge! You should make the Dhamma your own island. Let the Dhamma be your refuge and not let anything else be your refuge!”
“And Ānanda, how does a bhikkhu make himself his own island, make himself his refuge and make no one else his refuge; make the Dhamma his own island, make the Dhamma his refuge and make nothing else his refuge?”
“In this Teaching, Ānanda, a bhikkhu abides contemplating the body as a body, ardent, fully aware, mindful, having put away covetousness and grief for the world. He abides contemplating feelings as feelings…contemplating consciousness as consciousness…contemplating mental objects (dhamma) as mental objects, ardent, fully aware, mindful, having put away covetousness and grief for the world.”
“Ānanda, either now or after I have passed away, whosoever shall make themselves their own island, make themselves their refuge and make no one else their refuge; whosoever make the Dhamma their own island, make the Dhamma their refuge and make nothing else their refuge, those bhikkhus will be the foremost amongst those who are intent on the Threefold Training.”

The Demise of the Two Chief Disciples
After the rains-residence at Beluvagāmaka was over, the Blessed One left that village and wandered by stages to Sāvatthi and stayed at the Jetavana Monastery. At that time, the Venerable Sāriputta approached the Blessed One. After paying homage to Him, he spoke: “Lord, may the Blessed One permit, may the Exalted One consent: the time has come for me to attain final Nibbāna. I have relinquished the life force.”
The Blessed One gave His consent by asking him: “Where will you attain final Nibbāna?”
The Venerable Sāriputta replied: “In the Magadha Country, in a village called Nālaka, in the chamber where I was born.”
Before the Venerable Sāriputta left for Nālaka, the Blessed One asked him to give his last discourse on the Dhamma to the community of bhikkhus. Accordingly, the Venerable Sāriputta displayed all his wondrous powers of teaching the Dhamma; his powers were second only to the Blessed One.
After seven days of journey, the Venerable Sāriputta arrived at the Nālaka Village. His mother, the brahmin woman Rūpasārī, who was a non-believer, welcomed him thinking that her son would return to lay life again. That very night, even though afflicted by a grave illness, the elder still had a chance to teach the Dhamma to her mother and confirmed her in the Fruition of Stream-Entry. But soon afterwards,
the Venerable Sāriputta passed away and attained final Nibbāna on the full-moon day of the month Kattika.
After the cremation was completed, the Venerable Cunda gathered together the relics and placed them in a filter cloth; together with the Venerable Sāriputta’s alms-bowl and robes, he brought them to Sāvatthi. The Blessed One praised the virtues of the Venerable Sāriputta and asked His disciples to erect a stūpa to enshrine the
relics in Sāvatthi.
Thereafter, the Blessed One went to Rājagaha. During this time, the Venerable Moggallāna was staying alone in a forest hut at the Black Rock (Kāḷasilā), on the slope of Mount Isigili outside Rājagaha. At that time, a group of naked ascetics schemed to assassinate the elder. They believed that the elder, who used to visit various worlds, had related the report that the virtuous devotees of the Buddha were
enjoying rebirth in happy worlds, while the followers of the heretics, lacking in moral conduct, were suffering in woeful states of existence.
They bribed a band of brigands to assassinate the elder. When the brigands came to kill him, the elder used his supernormal powers to slip through the keyhole. For six consecutive days, this happened. But on the seventh day, they caught the elder and beat him, crushed his bones until they were as small as grain rice; they threw him behind a clump of bushes.
But, the elder had not passed away yet. He regained his consciousness and dragged himself to the presence of the Buddha to take his leave. The Blessed One asked him to give his final sermon to the community of bhikkhus, which he did by performing many wonders and marvels. Afterwards, he paid homage to the Blessed One and returned to the Black Rock and attained his final Nibbāna there on the new-moon day of the month Kattika, half a month after the demise of the Venerable
Sāriputta. The Blessed One then instructed to have a stūpa built to enshrine the relics of the Venerable Moggallāna at Rājagaha.

Relinquishing the Will to Live
Thereafter, the Blessed One wandered by stages with a large community of bhikkhus to Ukkācelā on the bank of the Gaṅgā River in the Vajjian country, where the Blessed One gave a discourse concerning the demise of the two chief disciples.
In the morning, the Blessed One went into Vesālī for alms. After His meal, He went to the Cāpāla Shrine with the Venerable Ānanda. While passing the day there, the Blessed One said to the Venerable Ānanda:
“Ānanda, whosoever has cultivated, practised, developed, mastered the Four Bases of Psychic Power (Iddhipāda), made them the vehicle, made them the foundation, established, consolidated and has properly undertaken them, could, if he wished, live for the maximum life-span or even beyond the maximum life-span. Ānanda, the Tathāgata has done all that; He could, if He wished, live for the maximum life-span or
even beyond the maximum life-span.”
Even though the Blessed One had given such a clear hint, such an evident sign, yet the Venerable Ānanda failed to comprehend it. He did not beseech the Blessed One: “Lord, let the Blessed One live for the maximum life-span, for the welfare and happiness of the many, out of compassion for the world, for the benefit, welfare and happiness of devas and man.” For the second and third time, the Blessed One said
the same thing, but the Venerable Ānanda could not grasp the Blessed One’s intimation. At that moment, the Venerable Ānanda’s mind was so much under Māra’s influence.
Then, the Blessed One told the Venerable Ānanda: “You may go, Ānanda. Now, it is time to do as you like.” The Venerable Ānanda replied:
“Very well, Lord,” then he rose from his seat, paid homage to the Blessed One and went away to sit down at the foot of a tree, nearby the Blessed One.
Soon after he had gone, Māra the Evil One came to the Blessed One and stood at one side, saying: “Let the Blessed One attain final Nibbāna now! Let the Sublime One pass away! Now is the time for the Blessed One to pass away!”
When Māra said thus, the Blessed One replied: “You may rest, Evil One. Before long, the passing away of the Tathāgata will take place. Three months from now, the Tathāgata will attain Parinibbāna.”
Then, the Blessed One, while passing the day at the Cāpāla Shrine, mindful and fully aware, decided to relinquish the will to live (āyusaṅkhāra-ossajjanaṁ). When the Blessed One made the resolution, the great earth quaked violently, and thunder rumbled fearfully, causing people gripped in terror; their gooseflesh appeared, and their hair stood on its end.
Seeing this phenomenon, the Venerable Ānanda wondered and went to the Blessed One inquiring the cause and reason for the manifestation of the great earthquake. The Blessed One explained the eight things which might cause an earthquake. The Blessed One then continued with a series of discourses consisting of eight things each viz. eight categories of assemblies (aṭṭha parisā), eight ways of mastery of the mind through concentration (aṭṭha abhibhāyatanāni), and eight stages
of release (aṭṭha vimokhā).
Having discoursed thus, the Blessed One then related what had happened between Him and Māra just before the great earthquake. He said to the Venerable Ānanda: “And now, Ānanda, this very day at the Cāpāla Shrine, the Blessed One, mindful and fully aware, has decided to relinquish His will to live.”
When he heard this, the Venerable Ānanda instantly recalled what the
Blessed One had said to him before and entreated Him, saying: “Lord, let the Blessed One live for the maximum life-span, for the welfare and happiness of the many, out of compassion for the world, for the benefit, welfare and happiness of devas and man.”
“Enough, Ānanda! Do not ask that of the Tathāgata now! The time to ask that of the Tathāgata has now gone by.”
For the second time, the Venerable Ānanda repeated the same request and received the same answer. And when he repeated the same request for a third time, the Blessed One replied that He had given a clear hint for many times, but the Venerable Ānanda failed to grasp them so as to invite the Blessed One to live for the maximum life-span. The fault then was on the Venerable Ānanda.

The Thirty-Seven Requisites of Enlightenment
After attenuating the Venerable Ānanda’s sorrow, the Blessed One went with him to the Pinnacled Hall at Mahāvana and asked him to summon all the bhikkhus in the neighbourhood of Vesālī to meet in the assembly hall.
The Blessed One addressed the bhikkhus: “Bhikkhus, I have expounded to you the doctrines which I have directly known. You should thoroughly learn, master, cultivate, develop and put them into constant practice so that this holy life may endure long and be perpetuated for the welfare and happiness of the many, out of
compassion for the world, for the benefit, welfare and happiness of devas and man.”
“And what are these doctrines? They are the thirty-seven requisites of Enlightenment (bodhipakkhiyadhammā):
the Four Foundations of Mindfulness (Cattāro Satipaṭṭhānā),
the Four Kinds of Right Endeavour (Cattāro Sammappadānā),
the Four Bases of Psychic Power (Cattāro Iddhipādā),
the Five Spiritual Faculties (Pañcindriyāni),
the Five Spiritual Powers (Pañca Balāni),
the Seven Factors of Enlightenment (Satta Bojjhaṅgā),
the Noble Eightfold Path (Ariya Aṭṭhaṅgika Magga).”

The Announcement of the Tathāgata’s Parinibbāna
Then, the Blessed One exhorted and announced the time of His Parinibbāna to the Saṁgha of Bhikkhus: “Behold, bhikkhus, now I declare to you: all conditioned things are of a nature to decay. Strive on with diligence! The passing away of the Tathāgata will take place before long. Three months from now, the Tathāgata will attain Parinibbāna.”
This the Blessed One said. The Accomplished One, the Teacher, having said this, furthermore spoke these words:

“Ripe is My age, a little of My life remains;
Leaving you behind I shall depart; I have made Myself My own refuge.
Be diligent and mindful! Be virtuous, O bhikkhus!
With well-concentrated thoughts, keep watch over your mind!
Whosoever lives out diligently in this Dispensation
Will get rid of the cycle of rebirths and make an end of all sufferings.”

A Noble Tusker’s Gaze
When it was morning, the Blessed One rearranged His robe; taking His alms-bowl and outer robe, He went to Vesālī for alms-round. After the alms-round and after taking His meal, on leaving the place He turned around and looked at Vesālī with a noble tusker’s gaze. Then, He said to the Venerable Ānanda: “Ānanda, this will be the Tathāgata’s last sight of Vesālī. Come, Ānanda, let us go to Bhaṇḍagāma!”
“Very well, Lord,” the Venerable Ānanda replied. Then, the Blessed One, accompanied by a large community of bhikkhus, journeyed to Bhaṇḍagāma. And while staying there, the Blessed One addressed the bhikkhus as follows: “Bhikkhus, it is through not having understanding and penetrative knowledge of four things that both you and I have had to wander about in the round of existence for a long time. What are the four? They are the noble one’s virtue, the noble one’s concentration, the noble one’s wisdom, and the noble one’s deliverance. But, when these four things have been understood and penetrated, then craving of existence is cut off, craving that leads one to becoming is exhausted, and there will be no more rebirth.”

The Discourse on the Four Great Authorities (Mahāpadesa)
After staying at Bhaṇḍagāma as long as He wished, the Blessed One wandered by stages with a large community of bhikkhus to Hatthigāma, Ambagāma, Jambugāma and thence to Bhoganagara, where He stayed at the Ānanda Shrine.
While the Blessed One was residing there, He taught a large assembly of bhikkhus the four great authorities (Mahāpadesa):
“In this Teaching, bhikkhus, a bhikkhu may say thus: ‘I have heard and received this exposition from the mouth of the Blessed One Himself; this is the Dhamma, this is the Vinaya, this is the Teaching of the Master.’”
“Or a bhikkhu may say thus: ‘In a certain monastery, there live a community of bhikkhus headed by an elder bhikkhu; I heard and received this exposition from the mouth of that community; this is the Dhamma, this is the Vinaya, this is the Teaching of the Master.’”
“Or a bhikkhu may say thus: ‘In a certain monastery, there live many elder bhikkhus of great learning, who are versed in the Teachings, proficient in the Dhamma, the Vinaya, and the Matrices; I heard and received this exposition from the mouth of those elders themselves;
this is the Dhamma, this is the Vinaya, this is the Teaching of the Master.’”
“Or a bhikkhu may say thus: ‘In a certain monastery, there lives an elder bhikkhu of great learning, who is versed in the Teachings, proficient in the Dhamma, the Vinaya, and the Matrices; I heard and received this exposition from the mouth of that elder himself; this is the Dhamma, this is the Vinaya, this is the Teaching of the Master.’”
“Bhikkhus, that bhikkhu’s words should be neither approved nor rejected. Without either approving or rejecting, those words and syllables stated of him should be studied thoroughly; then, they should be collated with the discourses (sutta) and compared with the disciplinary rules (vinaya).”
“If, when so compared, they neither harmonise with the discourses nor agree with the disciplinary rules, then you may conclude thus:
‘Certainly, this is not the Blessed One’s word. It has been wrongly learned by that bhikkhu or by that community of bhikkhus or by those elders or by that elder,’ and therefore you should reject it.”
“However, if, when so compared, they harmonise with the discourses and agree with the disciplinary rules, then you may conclude thus:
‘Certainly, this is the Blessed One’s word. It has been rightly learned by that bhikkhu or by that community of bhikkhus or by those elders or by that elder.’”
“Bhikkhus, you should remember well these four great authorities.”

The Buddha’s Last Meal
Then, when the Blessed One had stayed at Bhoganagara as long as He wished, He proceeded to Pāvā with a large community of bhikkhus and stayed at the mango grove belonging to Cunda the goldsmith’s son.
Having heard the news of the arrival of the Blessed One in his mango grove, Cunda immediately approached the Blessed One and paid his respect to Him. The Blessed One encouraged him with talk on the Dhamma and gladdened him in the practice. After listening to the Dhamma, he invited the Blessed One together with the Saṁgha of Bhikkhus to accept his offering of alms-food for the next day. And the Blessed One consented in silence.
Then on the next day, Cunda had sumptuous food prepared, including a special dish called sūkara maddava. (According to the Dīghanikāya Aṭṭhakathā, sūkara maddava or tender pork is the flesh of a pig that was neither too young nor too old, but not killed for His sake (pavattamaṁsa). Some teachers interpreted it as soft rice boiled with five different produces of a cow, while other teachers said that it was a special food prepared with some delicious and highly nutritive concoction called rasāyana.)
When the food was offered, the Blessed One asked Cunda to serve the sūkara maddava only to Him and any other food to the Saṁgha of Bhikkhus. After the Blessed One had partaken of the meal, He instructed Cunda to bury the leftover of the sūkara maddava in a hole as He saw no one else could digest it well. But after the meal, an
acute form of dysentry attacked the Blessed One with a flow of blood accompanied by violent deadly pains. The Blessed One bore this pain without complaint and remained mindful with clear comprehension.

On the Journey to Kusinārā
Though His body became very weak due to the illness, the Blessed One decided to continue his last journey to Kusinārā with a large community of bhikkhus.
On the way, the Blessed One left the road and went to the foot of a tree. There, He sat down on a seat prepared and asked the Venerable Ānanda to fetch Him some drinking water as He was very tired and thirsty. At that time, five hundred carts had just gone by crossing the stream and had made the water muddy. Then, the Venerable Ānanda suggested to the Blessed One: “Lord, the Kakutthā River is not far off; it has clear, pleasant, cool water, free from muddiness, and is with smooth and delightful banks. The Blessed One may drink and cool His limbs there.”
For the second time, the Blessed One asked and received the same reply. After the third time, the Venerable Ānanda assented: “Very well, Lord.” And when the Venerable Ānanda came to the stream, due to the power of the Blessed One, he found the shallow stream was clear, pure and free from muddiness. Then, he took some water and put it inside the alms-bowl. He returned to the Blessed One and told Him what had happened, adding: “Now, let the Blessed One drink the water! Let the Sublime One drink the water!” And the Blessed One drank the water.

Pukkusa the Malla Prince
After the Blessed One drank, and while He was still sitting at the foot of the tree, a Malla prince named Pukkusa—a disciple of Āḷāra Kālāma—who was on his way from Kusinārā to Pāvā, saw the Blessed One and approached Him. He expressed his wonder about his teacher, who was once sitting in deep concentration under a tree by the roadside to spend his daytime, but who neither saw nor heard a caravan of five
hundred carts passing by quite close to him, even though he was conscious and awake and his outer robe was covered all over with dust.
Thereupon, the Blessed One related to Pukkusa His experience. At one time, while the Blessed One was living in a threshing barn near Ātumā and was engaged in a deep meditation, there was a torrential rain with rumbling thunder, flashing lightning and crushing of thunderbolts. Then, a thunderbolt struck two ploughman brothers and four oxen to death near His hut. Although He was conscious and awake, while there was a torrential rain with rumbling thunder, flashing lightning and crushing of thunderbolts, He neither saw it nor heard the sound and He remained in His tranquil state.
Pukkusa was much impressed by the Blessed One’s tranquil state and took refuge in the Triple Gems to the end of his life. Subsequently, he presented a pair of golden-hued robes to the Blessed One. But, He asked Pukkusa to present one piece to Him and another piece to the Venerable Ānanda.
Soon after Pukkusa had gone, the Venerable Ānanda placed the pair of golden-hued robes on the Blessed One’s body. To his surprise, the brilliant colour of the golden-hued robes died out when they were placed on His body. Seeing this, the Venerable Ānanda exclaimed what he saw. Thereupon, the Blessed One explained that there would be two occasions when the natural colour of the Tathāgata’s skin became
exceedingly clear and bright viz. on the eve of His discovery of Supreme Full Enlightenment, and on the eve of His attainment of Parinibbāna.
The Blessed One then announced that in the last watch of the night on that very day, between the twin sāla trees in the sāla grove of the Mallas near Kusinārā, the Tathāgata would attain Parinibbāna.

The Two Exceptional Alms-Givings
Then, the Blessed One proceeded to the Kakutthā River, where He went down into the water, took His last bath, and drank the water. Afterwards, He went to a mango grove and took a short rest there, lying down on His right side like a lion sleeping. He laid on the outer robe made ready by the Venerable Cundaka.
While resting there, the Blessed One said to the Venerable Ānanda:
“Ānanda, it might happen that someone should provoke remorse in Cunda
the goldsmith’s son by saying: ‘It is no gain for you, Cunda; it is a loss for you that the Tathāgata passed away after having eaten His last meal provided by you.’ Now, any such remorse in Cunda the goldsmith’s son must be expelled in this way: ‘That is your gain, Cunda. That is your great fortune that the Tathāgata passed away after
having eaten His last meal provided by you. Cunda, I heard and learned this from the mouth of the Blessed One Himself: “These two kinds of alms-giving are equal in their fruit and result, and their fruit and result is far greater than any other. What are the two? They are the alms-giving after eating which the Tathāgata attains Supreme Full
Enlightenment, and the alms-giving after eating which the Tathāgata attains final Nibbāna without any residue left. These two kinds of alms-giving are more fruitful and profitable than all others.” These are the words I heard and learned from the mouth of the Blessed One Himself. Indeed, Cunda the goldsmith’s son has stored up a meritorious deed conducive to longevity, good looks, happiness, fame, heaven, and
to great power.’ Thus, the remorse in Cunda the goldsmith’s son must be expelled.”

Reaching the Twin Sāla Trees
After that short rest, the Blessed One continued His last tour with a large community of bhikkhus, crossing the Hiraññavatī River and went to the sāla grove of the Mallas in the vicinity of Kusinārā, His last resting place. Thus, the Blessed One had covered His last journey from Pāvā to Kusinārā, a distance about three gāvutas (three quarters of a yojana), during which he had to halt for twenty-five times due to His weakness and ailment.
On reaching there, the Blessed One asked the Venerable Ānanda to prepare a couch between the twin sāla trees with the head facing the north. And when it was ready, the Blessed One laid down on His right side in the lion-posture, placing one leg on the other, mindful and clearly aware.
At that time, the twin sāla trees burst forth into abundant blossoms, though it was not the flowering season yet; the blossoms scaterred and sprinkled themselves in veneration over the Tathāgata’s body.
Celestial coral-tree flowers (Pāḷi: mandārava; Latin: Erythrina fulgens) and celestial sandalwood powder also fell from the sky, continuously sprinkling themselves in veneration over the Tathāgata’s body while celestial music and songs resounded from the sky in slow rhythm out of veneration for the Tathāgata.
Seeing this celestial adoration for Him, the Blessed One said to the Venerable Ānanda: “Ānanda, it is not by such a way that the Tathāgata should be honoured, respected, revered, venerated or worshipped. But, whatever bhikkhu or bhikkhunī, upāsaka or upāsikā who lives practising in accordance with the Dhamma, who is endowed with rightfulness in the practice of the Dhamma, who walks in perfect conformity with the Dhamma, he or she honours, respects, reveres, venerates and worships the Tathāgata with the highest veneration of all. Therefore, Ānanda,
you should train thus: “We will live practising in accordance with the Dhamma, be endowed with rightfulness in the practice of the Dhamma, walk in perfect conformity with the Dhamma.”
At that time, the Venerable Upavāṇa, who was standing in front of the Blessed One fanning Him, was asked by the Blessed One to move aside. The Venerable Ānanda enquired Him: “Lord, the Venerable Upavāṇa had been an attendant to the Blessed One for a long time, staying near Him and is closely associated with Him. Yet, at this last hour, the Blessed One tells him to move aside. What is the reason of this?”
The Blessed One replied: “Ānanda, most of the devas from ten thousand world systems have come from afar to see the Tathāgata. These powerful devas have occupied a distance of twelve yojanas around the sāla grove of the Mallas without leaving a single space you could pierce with the point of a hair. They are grumbling and are displeased because their view is cut off by the powerful Bhikkhu Upavāṇa. That is why I had asked Upavāṇa to move aside and not to stand in front of Me.”
“And Ānanda, there are many sky devas and earth devas whose minds are earth-bound who are wailing and tearing their hair, upraising their hands, flinging themselves down, rolling back and forth, and lamenting: ‘Too soon is the Blessed One going to attain Parinibbāna! So soon is the Sublime One going to attain Parinibbāna! Too soon is the Possessor of the Eye of Wisdom going to vanish from the world!’”
“But Ānanda, those devas who are free from sensual passion can bear it, mindful and clearly aware: ‘All compounded things are impermanent. How could it be possible to get any permanence in this compounded nature?’”

Four Places Rousing Religious Emotion
Then, the Venerable Ānanda said: “Lord, it is customary for the bhikkhus who had spent rains-residence in various places to come and pay homage to the Blessed One. And on that occasion, we used to welcome them and get the privilege of seeing and honouring these inspiring bhikkhus. But Lord, after the Blessed One has passed away, we shall not be able to get this privilege any more.”
Concerning this, the Blessed One showed: “Ānanda, there are four places which are worthy of pilgrimage for the faithful devotees and which will inspire in them an emotional religious awakening. They are:

(1) Lumbinī, the birthplace of the Tathāgata.
(2) Buddha Gayā, the place where the Tathāgata attained Supreme Enlightenment.
(3) The deer park at Isipatana near Bārāṇasī, the place where the Tathāgata set the wheel of the Dhamma in motion.
(4) Kusinārā, the place where the Tathāgata attained Parinibbāna, the ultimate peace, which is the complete cessation of the five aggregates.”

“And Ānanda, all those pilgrims, if they should die while making the pilgrimage to these shrines with devout hearts, at the breaking up of the body after death, will be reborn in a happy destination, even in a heavenly world.”

The Venerable Ānanda’s Questions
Then, the Venerable Ānanda asked a series of questions to the Blessed One, thus: “Lord, how should we act towards women?”
“Do not see them, Ānanda!”
“But Lord, if we see them, how should we behave?”
“Do not speak to them, Ānanda!”
“But if they should speak to us, how should we behave, Lord?”
“You should keep mindfulness, Ānanda!”
The Venerable Ānanda continued asking: “Lord, how should we do with
the remains of the Tathāgata?”
“Ānanda, do not trouble yourselves with honouring the remains of the
Tathāgata! You should strive for the highest goal. Devote yourself to the attainment of Nibbāna! Practise with perseverance, ardently and without negligence for your own good! There are wise warriors, brahmins and householders who have firm confidence in the Tathāgata; they will honour the remains of the Tathāgata.”

Consoling the Venerable Ānanda’s Grief
After this questions and answers, thinking that on that very day the Tathāgata would attain Parinibbāna, the Venerable Ānanda fell in grief. Then, he went into a lodging, leaning on the doorpost, stood lamenting: “Alas! I am still a learner (sekkha) with tasks still to be done. And my Teacher, who has been so compassionate to me, is about to attain final Nibbāna.”
Knowing that the Venerable Ānanda was not beside Him, the Blessed One asked a bhikkhu to summon him to His presence and consoled him:
“Enough, Ānanda! Do not grieve! Do not lament! Have I not already told you that all things that are dear and beloved to us are subject to separation and changeable? So how could it be, Ānanda, that what is born, come to being, compounded, and subject to decay should not decay? That is not possible. Ānanda, for a long time you have attended on the Tathāgata faithfully both in His presence and in His absence with unbounded loving-kindness in act of body, speech and mind, for the benefit and welfare of the Tathāgata. You have made much merit, Ānanda. Keep on endeavouring and you will soon be free from taints.”
The Blessed One praised the Venerable Ānanda as wise and skilful in arranging the right time for bhikkhus, bhikkhunīs, upāsakas and upāsikās to come and see the Blessed One. The Blessed One also admired the Venerable Ānanda as he has four wonderful and marvelous qualities.
After the Blessed One preached the Mahāsudassana Sutta in connection with the place He chose for His Parinibbāna, He ordered the Venerable Ānanda to go to Kusinārā and announce to the Mallas of Kusinārā that the Tathāgata would attain final Nibbāna in the third watch of the night. Hearing the message brought by the Venerable Ānanda, the Malla princes, with their sons and daughters, daughters-in-law and their wives were grief-stricken, struck with anguish and sorrow. They went to the sāla grove to pay their last respects to the Blessed One.

Subhadda, the Last Disciple in the Presence of the Buddha
At that time, Subhadda the wandering ascetic was living at Kusinārā. He heard that the ascetic Gotama would attain Parinibbāna in the last watch of the night. He thought: “I have heard from the venerable elders, teachers among wandering ascetics, that indeed very rare, do the worthy, Fully Self-Enlightened Ones, the Tathāgatas, appear in the world. And, tonight, in the last watch, the ascetic Gotama will attain
final Nibbāna. Now, a doubt has arisen in my mind, and I have confidence in the ascetic Gotama that He can teach me the doctrine in such a way that I can dispel my doubt.”
Without delay, Subhadda went to the sāla grove and approached the Venerable Ānanda, expressing what he had thought and said: “Friend Ānanda, please allow me to see the ascetic Gotama!”
But the Venerable Ānanda replied: “Enough, friend Subhadda! Do not disturb the Tathāgata! The Blessed One is weary.”
Subhadda repeated his request for the second and third time, but the Venerable Ānanda replied in the same way, refusing it. Having overheard the conversation between the Venerable Ānanda and Subhadda, the Blessed One called the Venerable Ānanda: “Enough, Ānanda! Do not hinder Subhadda! Let him see the Tathāgata! For whatever Subhadda will ask of Me, he will ask in quest of his desire for perfect knowledge, not to annoy Me, and whatever I shall reply to his questions he will
quickly understand.”
Then, the Venerable Ānanda said: “Go, friend Subhadda! The Blessed One gives you permission.”
After exchanging friendly greetings with the Blessed One and sitting down at one side, Subhadda said: “O Gotama, there are these ascetics and brahmins who have large communities and followings, who are leaders of sects, who are renowned and famous as founders of schools, and who are esteemed by the multitude as saints, like Pūraṇa Kassapa, Makkhali Gosāla, Ajita Kesakambala, Pakudha Kaccāyana, Sañjaya
Belaṭṭhaputta, and Nigaṇṭha Nātaputta. Have they all realised the truth as they declare, or have none of them realised the truth, or have some of them realised the truth and some not?”
“Enough, Subhadda! Regardless whether they have all realised the truth as they declare, or none of them have realised the truth, or some of them have realised the truth and some not, I shall teach you the Dhamma. Listen and pay attention carefully to what I shall say!”
“Very well, Lord,” Subhadda replied.
“Subhadda, in whatever Dhamma and Vinaya the Noble Eightfold Path is not found, there is not found any ascetic of the first stage (Sotāpatti), neither is there any ascetic of the second stage (Sakadāgāmi), nor the third stage (Anāgāmi), nor the fourth stage (Arahatta). In whatever Dhamma and Vinaya the Noble Eightfold Path is
found, there are also found ascetics of the first stage, the second stage, the third stage, and the fourth stage.”
“Now, Subhadda, in this Dhamma and Vinaya of Mine, there exists the Noble Eightfold Path, and here, indeed, are found ascetics of the first stage, the second stage, the third stage, and the fourth stage. The other schools are void of true ascetics. And Subhadda, if these bhikkhus were to live and practise the Teaching rightly, the world will not be void of Arahants.”
“Subhadda, I was twenty-nine years of age when I renounced the world and became an ascetic to seek after what is wholesome. And now, over fifty years have passed since the time I went forth. Outside this Teaching, there is not a single ascetic who cultivates insight, even in part, which leads to the Noble Path. There is no ascetic of the first stage, nor is there any ascetic of the second stage, nor the
third stage, nor the fourth stage. The other schools are void of true ascetics. But if these bhikkhus were to live and practise the Teaching rightly, the world will not be void of Arahants.”
When Subhadda heard this, he said: “Magnificent, Lord, magnificent, Lord! The Dhamma has been made clear in many ways by the Blessed One, as though He were righting the overthrown, or revealing the hidden, or showing the way to one who is lost, or holding up a lamp in the dark for those with eyes to see visible forms. I take refuge in the Blessed One, in the Dhamma and in the Saṁgha of Bhikkhus. Lord, may I receive the going-forth and the full admission in the presence of the Blessed One.”
The Blessed One said: “Subhadda, if a person who has already been a believer in other doctrines wishes for the going-forth and the full admission into this Dhamma and Vinaya, he has to live under probation for four months. At the end of the four months, if the bhikkhus are satisfied, he will be initiated and admitted into the Order and be raised to the state of a bhikkhu. However, I recognise differences in individuals.”
“Lord, if that is so, I am prepared to live under probation even for four years; and at the end of the four years, if the bhikkhus are satisfied, let them grant me the going-forth and full admission into the Order and raise me to the state of a bhikkhu.”
But, the Blessed One told the Venerable Ānanda: “Since that is so, Ānanda, let Subhadda be initiated into the Order!”
“Very well, Lord,” the Venerable Ānanda replied.
Then, Subhadda said to the Venerable Ānanda: “It is a gain for you, friend Ānanda, it is indeed a great gain to you, for you have been anointed by the Blessed One, and in His presence, the anointment of close discipleship.”
Then, Subhadda the wandering ascetic received the going-forth and full admission into the Order as a bhikkhu in the presence of the Blessed One, and was taught by Him the appropriate method of meditation. After that, the Venerable Subhadda sought a secluded place, went into meditation, keeping a constant mindfulness, striving arduously, and directing his mind towards the attainment of Nibbāna. And in no long time, the Venerable Subhadda attained Arahantship. He
was the last one to become an Arahant in the presence of the Blessed One.

The Last Utterance of the Buddha
The Blessed One addressed the Venerable Ānanda: “Ānanda, you may think: ‘The Teacher’s instruction has ceased; now we have no Teacher.’ But you should not regard it so, for what I have taught and explained to you as the Dhamma and the Discipline will be your Teacher after My passing away.”
“Up till now, bhikkhus address each other with the word ‘Friend’ (āvuso), but they should not do so after My passing away. A senior bhikkhu should address a junior bhikkhu by his bhikkhu name or his family name, or as ‘Friend’ (āvuso). And a junior bhikkhu should address a senior bhikkhu as ‘Lord’ (Bhante) or ‘Venerable sir’
(Āyasmā).”
“Ānanda, if it so wishes, the Saṁgha may abolish the lesser and minor rules after My passing away.”
“And Ānanda, after My passing away, the higher penalty (brahmadaṇḍa) should be imposed upon the Venerable Channa.”
“But, Lord, what is the higher penalty?”
“Whatever the Venerable Channa wants or says, he should not be spoken to, admonished, or instructed by the bhikkhus.”
Then, the Blessed One addressed the bhikkhus thus: “Bhikkhus, it may be that some bhikkhu has doubts or uncertainty about the Buddha, the Dhamma, the Saṁgha, or about the path or the way of practice. Ask now, bhikkhus! Repent not afterwards, thinking: ‘We were face to face with the Teacher, yet we failed to ask the Blessed One in His presence to clear our doubts.’”
When this was said, the bhikkhus were silent. For the second and third time, the Blessed One repeated His words, and still they remained silent. Then, the Blessed One said: “Perhaps, bhikkhus, it may be out of respect for the Teacher that you do not ask Me. Then, bhikkhus, let one friend tell it to another!” But still, they were silent.
Then, the Venerable Ānanda said to the Blessed One: “It is wonderful, Lord, it is marvelous! I have such confidence that in this assembly there is not one bhikkhu who has doubts or uncertainty about the Buddha, the Dhamma, the Saṁgha, or about the path or the way of practice.”
“You, Ānanda, speak out of faith. But, the Tathāgata knows that in this assembly there is not a single bhikkhu who has doubts or uncertainty about the Buddha, the Dhamma, the Saṁgha, or about the path or the way of practice. Ānanda, the least one of these five hundred bhikkhus is a Sotāpanna, not subject to fall into woeful states, but certain and destined to Enlightenment.”
Then, the Blessed One addressed the bhikkhus and gave His last admonition:

“Handa dāni, bhikkhave, āmantayāmi vo,
Vayadhammā saṅkhārā,
Appamādena sampādetha.”

“Bhikkhus, now I declare to you:
“All conditioned things are of a nature to decay.
Strive on with diligence!”

The Buddha’s Mahāparinibbāna
After the Blessed One uttered His last words, the whole sāla grove fell into deep silence. The Blessed One entered upon the first ecstasy (jhāna). And emerging from it, He entered the second, the third, and the fourth jhāna. Then emerging from the fourth jhāna, He entered the Sphere of Infinite Space (ākāsānañcāyatana), the Sphere of Infinite Consciousness (viññāṇañcāyatana), the Sphere of Nothingness
(ākiñcaññāyatana), and the Sphere of Neither-Perception-Nor-Non-Perception (n’eva saññā n’āsaññāyatana), and emerging from it He attained and was absorbed in the Cessation of Perception and Feeling (saññāvedayita-nirodha).
The Venerable Ānanda, who noticed that the Blessed One did not breathe, was alarmed and said to the Venerable Anuruddha: “Venerable sir, the Blessed One has passed away.”
“No, friend Ānanda, the Lord has not passed away. He has attained the Cessation of Perception and Feeling.”
Then, the Blessed One, emerging from the Cessation of Perception and Feeling, entered the Sphere of Neither-Perception-Nor-Non-Perception. And emerging from it, He entered the Sphere of Nothingness, the Sphere of Infinite Consciousness, and the Sphere of Infinite Space. Then emerging from the Sphere of Infinite Space, He entered the fourth jhāna, the third jhāna, the second jhāna, and the first jhāna.
And then again, emerging from the first jhāna, He entered the second jhāna, the third jhāna, and the fourth jhāna. And emerging from the fourth jhāna, the Blessed One attained final Nibbāna.
At the same time as the attainment the final Nibbāna by the Blessed One, there was a great and terrible earthquake—accompanied with thunder—causing hair-raising and gooseflesh.
It was in the last watch of the night on the full-moon day of Vesākha in 543 B.C. and on His eightieth year when the Blessed One passed away without any residue remaining.

To be continued

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アシン・クサラダンマ長老

1966年11月21日、インドネシア中部のジャワ州テマングン生まれ。中国系インドネシア人。テマングンは近くに3000メートル級の山々が聳え、山々に囲まれた小さな町。世界遺産のボロブドゥール寺院やディエン高原など観光地にも2,3時間で行ける比較的涼しい土地という。インドネシア・バンドゥンのパラヤンガン大学経済学部(経営学専攻)卒業後、首都ジャカルタのプラセトエイヤ・モレヤ経済ビジネス・スクールで財政学を修め、修士号を取得して卒業後、2年弱、民間企業勤務。1998年インドネシア・テーラワーダ(上座)仏教サンガで沙弥出家し、見習い僧に。

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ヴィパッサナー修習(観察冥想)実践、仏教の教理を学び、先輩僧指導の下、2000年までジャワ島、スマトラ島で布教に従事。同年11月、ミャンマーに渡り、チャンミ・イェッタ森林冥想センターで修行し、2001年、導師チャンミ・サヤドーのもとで比丘出家。同年、ミャンマー・ヤンゴンの国際仏教大学(ITBMU)入学、2004年首席(金メダル授与)卒業。同年以降2006年まで、バンディターラーマ冥想センター(ヤンゴン)、バンディターラーマ森林冥想センター(バゴー)でヴィパッサナー冥想修行。

奥田 昭則

1949年徳島県生まれ。日本テーラワーダ仏教協会会員。東京大学仏文科卒。毎日新聞記者として奈良、広島、神戸の各支局、大阪本社の社会部、学芸部、神戸支局編集委員などを経て大阪本社編集局編集委員。1982年の1年間米国の地方紙で研修遊学。2017年ミャンマーに渡り、比丘出家。

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著書にヴァイオリニスト五嶋みどり、五嶋龍の母の半生を描いた「母と神童」、単一生協では日本最大のコープこうべ創立80周年にともなう流通と協同の理念を追った「コープこうべ『再生21』と流通戦争」、新聞連載をもとにした梅原猛、今出川行雲、梅原賢一郎の各氏との共著 「横川の光 比叡山物語」。2021年、逝去。
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