寺子屋スジャータ

18話 苦行・・・骨と皮に

南伝ブッダ年代記 | アシン・クサラダンマ | 花

アシン・クサラダンマ長老 著 
奥田昭則 訳 / チョウ・ピュー・サン 挿絵

第2部 成道へ

第1章 苦行

 

18話  苦行くぎょう・・・・ほねかわ

南伝ブッダ年代記

菩薩ぼさつ(ボーディサッタ)は明智みょうちさがしもとめるたびをつづけた。マガダこく遍歴へんれきし、ついにウルヴェーラーのもりちか市場いちばまちセーナーニにいた。森を念入ねんいりに調しらべ、まわりがしずかでおだやかで、うっとりするほどうつくしい、魅力みりょくある場所ばしょをみつけた。森のなかにはきれいにみきった清流せいりゅうのネーランジャーラがわながれている。気持きもちのよいたいらながんがあり、どろぬまはない。森のちかくにむらがあり、森にんでいる行者ぎょうじゃたちは托鉢たくはつ容易ようい食べ物たべものられるのだ。こうした特色とくしょくて、かれはこうかんがえた。(善家ぜんけ子息しそく涅槃ねはんをめざして懸命けんめいりくむにはまさにぴったりの場所だ)と。したがって、このウルヴェーラーの森にちつこうとめたのである。ここが、かれの精神せいしんてき目標もくひょう完成かんせいさせるために、ろくねんものながきにわたって厳格げんかく修行しゅぎょう実践じっせんするとなった。

おそろしく、こわい感情かんじょう遭遇そうぐうする

菩薩はウルヴェーラーの森にいて、こう考えた。
「まさしくとおくはなれた密林みつりんしげみにむことを耐え忍たえしのぶのはむずかしい。完全かんぜん遠離おんりをまっとうするのは、むずかしい。孤立こりつして住むのをたのしむのもむずかしい。なぜなら、こころ統一とういつ集中しゅうちゅうがないものには、密林が心をうばうにちがいないからだ」

かりに、ある行者かバラモンが、こころ、ことば、からだの活動かつどうきよらかでないか、邪悪じゃあくらしをしていて、肉欲にくよく敵意てきいがい思考しこうをもち、放逸ほういつで、よくづくことがなく、こころが統一集中せず、混乱こんらんし、正知しょうちいている、としてみよう。そんな行者かバラモンが、森のなかの遠くはなれた密林の繁みをまいにするときは、そうした欠点けってんによって、気味悪きみわるいおそろしさやこわさをびだしてしまうのだ」
「しかし、わたしは、そうした欠点があるものの一人ひとりとして、森のなかの遠くはなれた密林の繁みを住まいにするのではない。わたしは、そんな欠点がない気高けだかとうといものの一人として、森のなかの遠くはなれた密林の繁みを住まいにするのだ。そうした欠点から自由じゆうなわたし自身じしん内部ないぶを見ていて、森に住むのはおおきななぐさめだ、とわかる」
そこにいるあいだ、菩薩もまた、おそろしさやこわさの感情に遭遇した。
「満月まんげつとか新月しんげつとか、そしてつき八日目ようかめ四半分しはんぶん弦月げんげつ特別とくべつ聖夜せいや、わたしはかつてそんなよるを、もっとも厄介やっかいな、恐怖きょうふでぞっとする果樹かじゅえんで、密林の繁みで、大樹たいじゅもとで、こわい光景こうけい出来事できごとゆめを見ながら、かみ極限きょくげんまで逆立さかだつようなおもいをしてごした。そこにいたときには、鹿しか近寄ちかよってきたり、孔雀くじゃくえだをバサッとはたいたり、かぜ葉末はずえすってカサコソさせたりした。そんなときわたしは考えたのである。『たしかにこれは、おそろしさやこわさがやってきているのだ』と」
「そんな瞬間しゅんかんに、わたしは薄気味悪うすきみわるかんじたのだが、こんな思いも心にかんだ。『なぜわたしは、おそろしさやこわさを、つねに待ち受まちうけているのだろうか? おそろしさやこわさを、いまわたしがとっている姿勢しせい持続じぞくすることで、しずめてみてはどうであろうか?』」

「それから、あるいているあいだにおそろしくなったときはいつでも、わたしは、つことでもすわることでもよこになることでもなく、あるくことを持続することによっておそろしさやこわさを静めた。っているあいだにおそろしくなったときはいつでも、わたしは、歩くことでも坐ることでも横になることでもなく、立つことを持続することによって、おそろしさやこわさを静めた。すわっているあいだにおそろしくなったときはいつでも、わたしは、歩くことでも立つことでも横になることでもなく、坐ることを持続することによって、おそろしさやこわさを静めた。横になっているあいだにおそろしくなったときはいつでも、わたしは、歩くことでも立つことでも坐ることでもなく、横になることを持続することによって、おそろしさやこわさを静めた」

ぐん行者が菩薩に合流ごうりゅうする

生後せいご五日のあかちゃんだった菩薩を、いつかブッダになるだろう、といちばんわかいバラモンのコンダンニャが予言よげんしてから、およそ二十九年たっていた。コンダンニャはシッダッタ王子おうじ出家しゅっけの日をちつづけていたのである。そしてその間はいつも、王子がてたかどうか、かれはきいていたのだ。いまやもう、かなり老人ろうじんになっていたが、自分じぶんの予言を確信かくしんしており、待ちつづけることに希望きぼううしなっていなかったものの、将来しょうらいを予言した八人のバラモンのうち、かれ以外いがいの七人はすでにくなっていた。アーサーラー月の満月の日に王子が出家した、とつたいたとき、ついに幸福こうふくな日がやってきたのである。亡くなったほかのバラモンの息子むすこたち四人に、ただちに話をもちかけた。ワッパ、バッディヤ、マハーナーマ、アッサジである。かれらに、いっしょに世を捨て菩薩に合流しよう、と説得せっとくしたのだ。
それからこの五人の行者はいくつかの王国おうこくの村や市場町をおとずれ、菩薩を探し、ついにウルヴェーラーの森でみつけた。かれらは菩薩に側近そっきんとしてつかえたが、菩薩はもっともきびしいかたちの苦行に従事じゅうじして、ほどなくブッダになり、解脱げだつみちおしえてくれるだろうというつよい希望をもっていた。ウルヴェーラーの森で六年のあいだ、かれらは菩薩のびととして、まわりの掃除そうじや、お湯やみずをもってくるなどのつとめをたしたのだ。

こし~三つのたとえ

ある日、菩薩の心に、三つのたとえが自然しぜん発生はっせいてきに浮かんだ。それは、これまできいたことがないものであった。
「たとえば、あるおとこ摩擦まさつ発火はっかの火起こしぼうで、水のなかにひたされ、樹液じゅえきふくんでれている木片もくへんをこすって火をつけようとおもっても、火をつけることはできない。なぜなら木片は濡れていて、水にひたされているからだ。そのかわりにくたびれてへとへとになり、失望しつぼうするだけだろう。ちょうどそのように、この世に肉体にくたい的にも精神的にも官能かんのう欲望よくぼう感覚かんかく対象たいしょうからはなれていない行者やバラモンがいるのだが、かれらは熱心ねっしんに修行して、くるしく、苛酷かこくで、すような思いをしているのに、どうのさとりをることはなく、みじめになるだけだろう」
これがだいいちのたとえで、自然発生的にかれに浮かんだのだが、これまできいたことがなかった。このたとえは《妻子さいし持ち(妻帯さいたい)(サプッタバリヤー)出家(パッバッジャー)》とばれる行者の類型るいけいしめしている。すなわち禁欲きんよく主義しゅぎのかたちをとりながらも、そんな行者やバラモンは、妻やこどもとの在家ざいけ生活せいかつを、そのままおくっているのだ。
「また、たとえば、ある男が摩擦発火の火起こし棒で、水から遠くはなれた地面じめんうえかれ、樹液を含んで濡れている木片をこすって火をつけようと思っても、やはり火をつけることはできない。なぜなら木片が水から遠くはなれたかわいた地面の上に置かれていても樹液を含んで濡れているからだ。そのかわりにくたびれてへとへとになり、失望するだけだろう。ちょうどそのように、この世に肉体的には官能の欲望や感覚の対象からはなれている行者やバラモンがいるのだが、精神的にはそうではないのだ。かれらは熱心に修行して、苦しく、苛酷で、身を刺すような思いをしているのに、道や果のさとりを得ることはなく、みじめになるだけだろう」
これが第二のたとえで、自然発生的にかれに浮かんだのだが、これまできいたことがなかった。このたとえは《バラモンほう者(邪教じゃきょう信者しんじゃ)(ブラーフマナダンミカー)の出家》と呼ばれる行者の類型を示している。すなわち禁欲主義のかたちをとり、在家の生活や妻子さいしを捨てていながらも、そんな行者やバラモンは、あやまった実践にみずからをささげているのだ。
「さらにまた、たとえば、ある男が摩擦発火の火起こし棒で、水から遠くはなれた地面の上に置かれ、樹液がなく乾いた木片をこすって火をつけようとおもうと、火をつけることができて容易にねつしょうじさせられる。なぜなら木片が水から遠くはなれた乾いた地面の上に置かれていて、樹液をふくまず、乾いているからだ。ちょうどそのように、この世に肉体的にも精神的にも両方りょうほうとも官能の欲望や感覚の対象から完全にはなれている行者やバラモンがいるのだ。かれらは熱心に修行して、苦しく、苛酷で、身を刺すような思いをしていても、いなくても、どちらでもただしい実践をして、道や果のさとりを得るだろう」
これが第さんのたとえで、自然発生的にかれに浮かんだのだが、これまできいたことがなかった。このたとえは《菩薩の出家(パッバッジャー)》と呼ばれる行者の類型を示し、菩薩自身が実践しているものだった。

止息しそく禅定ぜんじょう開発かいはつ実践

ウルヴェーラーの森で菩薩は、もっとも厳しい種類しゅるいの苦行すべてを実践することで、明智みょうちをめざして悪戦苦闘あくせんくとうした。苦行とは「なしがたい行為こうい(ドゥッカラチャリヤ)」と呼ばれ、ふつうの人には実践がむずかしいものだ。かれは四重しじゅうの強い決意けついをした。それは「精勤しょうごん精進しょうじん(パダーナヴィリヤ)」と呼ばれ、つぎのようなものである。
「わが皮膚ひふのみのこれ! わがすじのみ残れ! わが骨のみ残れ! わがにくからびよ!」
この決意によって、かれは一瞬いっしゅんたりとも退却たいきゃくせず、実践において、全力ぜんりょくをあげて奮闘ふんとうしたのである。
そのとき、次のような考えがかれに浮かんだ。「もしわたしがいしばり、した口蓋こうがいしつけ、健全けんぜんな心で不健全ふけんぜんな心を制御せいぎょし、制圧せいあつし、破壊はかいしたら、それはいことだろう」と。
かくして、ちょうど強い男がよわい男のあたまかたをつかんでさえむように、かれは歯を食いしばり、舌を口蓋に押しつけ、健全な心で不健全な心を制御し、制圧し、破壊した。かれが悪戦苦闘している間、あせわきの下からポタポタしたたった。
そのときちから具合ぐあいよわまったのではなく、かれのなかから強い活力かつりょくいきおいよくまれてきたのだ。かれのづきは確立かくりつされ、混乱はなかった。しかしくるしい努力どりょくによって、かれの全身ぜんしん極度きょくど興奮こうふんし、平穏へいおんではなかった。苦しいという感情がかれのなかに生まれはしたが、奮闘をつづける意思いしはびくともせず、ひるまなかった。
このとき菩薩は、こう考えた。「わたしは呼吸こきゅうによる止息禅定をこころみてはどうであろうか!」
そこで必死ひっしの努力で、くちはなから、うのとくのをめた。出入でいりの機会きかいがなくなって、息はりょうみみをとおしてけたが、特別にうるさいおとをたてた。ちょうど鍛冶かじのふいごが特別な轟音ごうおんをたてるように、かれの両耳から出入りする息が轟音をたてたのである。
また、かれに考えが浮かんだ。「わたしはまた、無呼吸による止息禅定(アッパーナカジャーナ)を、こころみてはどうであろうか!」
そこで必死の努力で、口と鼻と耳から、吸うのと吐くのを止めた。口と鼻と耳からの出入りの機会がなくなって、息の風がかれの頭をち、し、ひどくくるしめた。ちょうど強い男がするどくとがったきりで頭を突き通つきとおすように、かれの頭を息が強烈きょうれつ暴力ぼうりょくでひどく苦しめた。
さらにまた、かれに考えが浮かんだ。「わたしは、無呼吸による止息禅定(アッパーナカジャーナ)を、こころみつづけてはどうであろうか!」
そこで必死の努力で、まえのように、口と鼻と耳から、吸うのと吐くのを止めた。かれがそうしたとき、はげしいいたみが頭のなかに生まれた。ちょうど強い男がかたかわひもをかれの頭にいて棒切ぼうぎれでねじってギリギリめつけるかのようであった。
それでもまた、かれに考えが浮かんだ。「わたしは、無呼吸による止息禅定(アッパーナカジャーナ)を、それでもこころみつづけてはどうであろうか!」
そこで必死の努力で、前のように、口と鼻と耳から吸うのと吐くのを止めた。その後すぐに、猛烈もうれつな息の風がかれのおなかをきざんだ。ちょうど手際てぎわのよい肉屋にくやかその徒弟とていがウシのはらにく鋭利えいり刃物はものきざむかのようで、そのように、たっぷりの息がかれのおなかを刺した。
もう一度、かれに考えが浮かんだ。「わたしは、無呼吸による止息禅定(アッパーナカジャーナ)を、それでもこころみつづけてはどうであろうか!」
そこで必死の努力で、前のように、口と鼻と耳から、吸うのと吐くのを止めた。かれがそうしたとき、全身が猛烈にけつくような熱病ねつびょう(ダーハローガ)にかかった。ちょうど強い男ふたりが、ひとりの弱い男の両手りょうてをつかんで、おこっている石炭せきたんへこみであぶっているかのようだった。
このようにかれが止息禅定をさらにさらに過酷かこくにやるたびに、かれに奮起ふんきする力が生まれつづけた。だからかれの気づきは確立され、混乱はなかった。しかしながら苦しい努力によってかれの全身は極度に興奮し、平穏ではなかった。苦しいという感情がかれのなかに生まれはしたが奮闘をつづける意思はびくともせず、ひるまなかった。
かれの全身はあまりに極端きょくたんな強い熱にちのめされ、歩いているうちに卒倒そっとうして、崩れ落くず おちて坐位ざいになった。そのとき、かれがそのように崩れ落くず おちるのを見たかみ々は「沙門しゃもんゴータマはんだ」といった。べつの神々は「沙門ゴータマは死んではいないが、かれはにつつある」といった。さらにまた別の神々は「沙門ゴータマは死んでいないし、死につつあることもない。沙門ゴータマは阿羅漢あらかんであり、尊者そんじゃであり、そのような道に阿羅漢はちこたえてとどまる」と、いったのである。

断食だんじきの実践

ほんのすこしのあいだ、が遠くなったのち意識いしきもどってきた。そして活力と気づきも戻った。そのときかれは、からだをちょっと新鮮しんせんにするため、ながって吐く深呼吸しんこきゅうなんかした。そのあと立ち上た あがり、樹下じゅかのかれの坐所ざしょった。その瞬間、こう考えたのだ。「わたしは完全な断食の実践をしたらどうであろうか!」と。
そのあとすぐに、ある神々がかれにちかづいてきて、こういった。
「おお、気高く貴い沙門しゃもんよ、完全な断食の実践をなさいませんように! 食べ物をまったくべないのなら、われらは神の食べ物をあなたの毛穴けあなから注入ちゅうにゅうすることになりましょう。その食べ物で、あなたはいのちちこたえるでしょう」
神々がかれにどのようにするのかをきいて、菩薩はこう考えた。「もし、わたしが完全に食べ物を食べないと決めたら、これらの神々はわたしの毛穴から神の食べ物を注入することになろう。わたしはそれによって命を持ちこたえるであろうが、そのときわたしはいつわりをいっていることになろう」と。
だからかれはことわって「必要ひつようありません」といったのである。
それから、こんな考えがかれに浮かんだ。「もし、わたしが一日の食事しょくじを、ほんの少しずつべるのなら、それは善いことではなかろうか。たとえば少量しょうりょうのインゲンまめのスープか、少量の穀物こくもつのスープか、少量の扁平へんぺいなレンズ豆のスープか、少量のエンドウ豆のスープを!」
そこでかれがそうしてみると、からだがだんだんせてやつれ、極度の羸痩るいそう(やせ衰えた)の状態じょうたいになった。栄養えいよう欠如けつじょから、からだと手足てあし関節かんせつ突き出つ でていた。まるで、くきふしくれだっているニワヤナギか大きなぐさ(訳注:アーシーティカやカーラと呼ばれる草かつる)のようであった。かれの臀部でんぶゆびが二ほんのラクダのひずめのようになり、肛門こうもんへこんでしまった。かれの背骨せぼねは大きな数珠じゅずだま数珠じゅずつなぎに浮き出うきでているかのようであった。肋骨ろっこつの間の肉はちこんで、肋骨がふるい家の垂木たるきのように突き出ていた。両目りょうめ眼球がんきゅう眼窩がんかちこみ、ちょうどふか井戸いど奥底おくそこうつふたつのほしのようであった。頭皮とうひはしなびてしおれ、末成うらな瓢箪ひょうたんが風にかれて日にさらされて、しなびてしおれたみたいであった。
もし、かれが自分のおなかにさわると、背骨にまでさわってしまうほどであった。そしてもし、背骨にさわると、おなかにまでさわってしまうほどであった。おなかの皮が栄養えいようぶつの欠如のせいで背骨にまとわりついていたのである。かれが排泄はいせつのためにしゃがむと、キンマの果実かじつである檳榔子びんろうじ(訳注:ながさ六~八㌢のたまごがた)くらいのおおきさのかたい玉が、せいぜい一、二、なんとか排出はいしゅつされるのだ。小水しょうすいもまた、まったくなかった。小水になるのにりるほど水分すいぶんのある食べ物が、おなかになかったのである。からだがあまりによわっていて、以上いじょうのようなことをすると、かおを下にしてばったりその場に崩れ落ちた。もし、かれが自分のからだをちつかせるために両手で手足をこすると、肉と血から十分じゅうぶんに栄養がまわっていないために、体毛たいもうがぽろぽろ毛根もうこんからはがれちてしまうのであった。
そんなとき、かれを見たひとびとは、このようにいった。「沙門ゴータマの顔は真っ黒まっくろだ」別の人びとは「沙門ゴータマの顔は真っ黒ではない。茶色ちゃいろだ」その他の人びとは「沙門ゴータマの顔は真っ黒でも茶色でもない。黄褐色おうかっしょくだ」かがやくばかりにあかるい黄金おうごんしょくであったかれの顔の色は、あまりにも食べ物を食べていないために、ひどく劣化れっかしていたのである。
ある日、かれが歩いて行ったりたりしているとき、またも気が遠くなり、顔を下にして崩れ落ちた。えがたい熱になやまされ、栄養がりていないせいだった。ウルヴェーラーの森の近くに住んでいる人びとは菩薩がもう何日も、ほとんど何も食べていないことをっていたのだ。そんなとき、ひとりのひつじいの少年しょうねんが、菩薩がたおれた場所にたまたまとおりかかった。かれは菩薩があまりに断食をしすぎたので、もうにかけているのだ、と思ったのだ。かれはすぐさま菩薩に近寄ちかより、こそうとした。菩薩が意識を取り戻と もどしたあと、かれは菩薩の頭をひざの上にせ、山羊やぎちちませた。菩薩は感謝かんしゃの思いをつたえ、羊飼いの少年が健康けんこうで幸福でありますように、といのったのである。

悪魔あくまの十ぐん」を制圧する

出家から六年後、菩薩は危機きき的な局面きょくめんいたった。かれはほとんど瀬戸際せとぎわだった。しかしながら、かれはいまだに最高さいこう度の精勤しょうごん(パダーナ)の意思があった。ネーランジャーラ川に近いウルヴェーラーの森で、止息禅定をくりかえしこころみていたのである。
この情況じょうきょうみとって、悪魔(マーラ)のナムチがただちにせかけの善意ぜんいとあわれみをよそおい、かれに近づいて、こういった。
「おお気高く貴い王子よ、あなたはいまやひどく痩せている。あなたのからだはまばゆい光彩こうさいうしない、ひどくおとろえた。死が間近まぢかに来ている。きながらえる見こみはせんひとつだ。きよ、おお気高く貴い王子よ! きるのが、よりこのましい道だ。もし長生ながいきすれば、功徳くどくめる。禁欲行きんよくぎょうの清らかな生活をして、生け贄いけにえ供養くよう護摩ごま儀式ぎしきをいとなめる。そうすれば、さらに多大ただいな功徳が得られるであろう。この苦行の実践は何の役に立やくにたつのか? この古いみちは耐えがたい! あなたの目標は達成たっせいしがたい! この実践には確かさがない! まさに、こんな道をあゆんでゆくのは実行じっこう可能かのうなことではない!」
悪魔の誘惑ゆうわくこたえて、菩薩が大胆だいたんに、はっきりこういった。
「おお、しき者よ、おまえはいつでも有情うじょう輪廻りんね(サンサーラ)の転生てんせいしばりつけ、いつでも有情の解脱げだつ邪魔じゃましている。おまえがここにきたのは、ただ自分の利益りえきのためだけだ」
「わたしは輪廻りんねにみちびく世間せけん善業ぜんごう微塵みじんも必要としていないのだ。悪魔よ、そのような世間の善業を切望せつぼうする者たちだけ、おまえは誘惑すればよいのだ」
「わたしの確信(サッダー)は堅固けんごで、まもなく確実かくじつに涅槃をさとるであろう。わたしには精進(ヴィリャ)があふれんばかりで、草ぼうぼうのきたならしいがらくたはやしてはいにできる。わたしの智慧ちえ(パンニャー)はくらべるものがなく、岩山いわやまごと無明むみょう(アヴィッジャー)をこなごなにくだける。わたしのねん(サティ)(気づき)は偉大いだいで、わたしが覚者かくしゃ(ブッダ)になるようにみちびき、思慮しりょから自由にする。わたしのじょう(サマーディ)(統一集中)は須弥山しゅみせん(メール)のようにらがず、あらしにもびくともしない」
「おお、悪魔よ、止息禅定(アッパーナカジャーナ)を開発する激しい修行によってきたわたしのからだのこの風は、ガンジス、ジャムナー、アチラヴァティー、サラブー、マヒーというインド五大河たいがの流れでもあがらせることができるのだ。だから、このような苦行中に、わたしの心は涅槃にけられているのに、体内たいないのわずかな血を、なぜわたしが干あがらせられないことがあろうか?」
「もし、血があがったら、胆汁たんじゅうたん小便しょうべん、栄養成分せいぶんあがる。そして肉も、たしかに消耗しょうもうするだろう。しかし、胆汁、痰、小水、栄養成分がこのようになくなれば、わたしの心は、さらにきれいになる。ねんじょうもさらにそだち、確かなものとなる」
「わたしは極度の苦痛くつう経験けいけんし、わたしの全身はほとんどほのお噴き出ふ ださんばかりの程度ていどまであがり、それによってわたしは完全に消耗しているが、わたしの心は絶対ぜったいに官能の肉欲によっては横道よこみちれていない。おお、悪魔よ、おまえが見ているものは、最善さいぜん性質せいしつたしている比類ひるいなき人間にんげんの心の清浄せいじょう高潔こうけつさである」
「おまえの第一軍いちぐんは〈愛欲あいよく(カーマ)〉だ。第二軍は禁欲行の清らかな生活への〈反感はんかん(アラティ)〉で、第三軍さんぐんは〈えとかわき(クッピーパーサー)〉だ。第四軍は〈渇愛(タンハー)〉、第五軍は〈無気力むきりょく(ティーナ)と眠気ねむけ(ミッダ)〉、〈恐怖(ビール)〉が第六軍、〈うたがう(ヴィチキッチャー)こと〉が第七軍である。第八軍は〈偽善ぎぜん(マッカ)と強情ごうじょう(タンバ)〉で、第九軍は不正ふせいな〈利得りとく(ラーバ)、名声めいせい(シローカ)、尊敬そんけい(サッカーラ)〉、第十軍は〈自画じが自賛じさん(アットゥッカンサナ)と他者たしゃ毀損きそん(パラヴァンバナ)〉である」
「悪魔のナムチよ、これがおまえの十軍だ。その威力いりょくで、人間、神々、バラモンが苦の輪廻から解脱することを邪魔しているのだ。偉大な確信、意欲いよく、精進、智慧をそなえた勇者ゆうしゃ以外、悪魔の十軍を征圧せいあつできる者はいない。その勝利しょうりが、道と果のさとりと涅槃をもたらすのである」
この当時とうじ戦士せんし決死けっし覚悟かくごしめちかいいのしるしとしてムンジャ草のを身につけてたたかいにいどんだ、といわれているが「降参こうさんして退却しないしるしとして、わたしはムンジャ草を身につけている。もし、わたしが戦いから退却せざるをえなくなり、おまえに敗北はいぼくしてこの世にきながらえたら、それは不名誉ふめいよで、ぶちこわしで、みっともないことであろう。おまえの軍勢ぐんぜいに打ちかされて敗北をみとめるくらいなら、むしろ戦場せんじょうで死んだほうがはるかにましだ」
「この世には煩悩ぼんのう(キレーサ)の戦場にく行者やバラモンがいるが、抵抗ていこう力はなく、おまえの十軍に制圧されている。かれらはまるであかりなしにやみはいってしまった者のようだ。道理どうりにかなった正道しょうどうらず、そこをあゆみもしないのだ」
「おお、悪魔よ、おまえの軍勢を四方八方しほうはっぽうすべてに配置はいちしても、わたしは微塵もこわくない。さあここで、わたしはおまえとたたかおう。おまえは、わたしがいまいる場所からわたしを追い払お はらうことはできない。おまえの軍勢に、世間はそのすべての神々とともにてないが、わたしはいま、わたしの智慧で、悪魔の十軍をほろぼすであろう。ちょうどいし一つで、火がとおっていないナマのつちはちをこなごなにくだくように」
菩薩がはっしたこんないさましいことばをきいて、悪魔はひとことも答えられずに、その場をったのであった。

明智への別の道を熟考じゅっこうする

ある日の午後ごご前日ぜんじつに気が遠くなったあと菩薩は羊飼いの少年が飲ませてくれた山羊の乳のおかげで生気せいきを取り戻し、気分きぶんがよくなったことを思い返おも かえしていた。あれがなければ死んでいたかもれない。
そう考えていたとき、まちかう少女しょうじょ一団いちだんが近くを横切よこぎった。あるきながら、このようにうたっている。

・・・もし、わたしたちがげんをゆるめすぎれば、竪琴たてごとの音は出ないでしょう。
もし、わたしたちが弦をきつくめすぎれば、竪琴はバラバラにこわれるでしょう。
もし、弦をよわすぎずつよすぎずめれば、竪琴はあまい調べをかなでるでしょう・・・。

少女たちのうた歌詞かしが、かれの気持ちをふかうごかした。まだ宮殿きゅうでんで暮らしていたときは、あまりにもあらゆる感覚のたのしみにふけっていた。ちょうど竪琴の弦のゆるめすぎのように、みずからのままな放埒ほうらつをとおしてだと、明智はさとれないのである。ちょうど竪琴の弦のきつく締めすぎのように、みずから死のふち手前てまえまでいく苦行をとおしてだと、明智はさとれないのである。
紀元前きげんぜん588年、ウェーサーカー月(訳注:現代げんだいれきの5月ごろ)の新月から満月へ月がちていく最初さいしょの日、菩薩に、こんな考えが浮かんだ。(過去かこの行者やバラモンは苦行の実践では、しょせんこの程度が最大限さいだいげんである痛みとつらさを体験たいけんすることができたにすぎない。かれらは、わたしがいまえているつらさ以上には体験できなかったのだ。だから未来みらいの行者やバラモンもおなじで、現在げんざいのかれらも同じである。しかし、みずから死の淵の手前までいく苦行のこの激しい実践では、気高く貴い者の智慧と洞察どうさつにふさわしい、人間の置かれた条件じょうけんより高度こうど超越ちょうえつの道へ、わたしはたっすることができなかった。明智への別の道があるのではないだろうか?)
そのとき、かれはこども時代じだいのめでたいまつり「国王こくおう犂耕りこうさい」のことを思い出おもいだした。父王ふおうスッドーダナはおさない王子をれていき、蒲桃ほとうすずしい木陰こかげに王子をいて、子守こもりたちに面倒めんどうをみさせたのだ。かれは官能の欲望からも、不健全なことからも、まったくはなれていた。そのときかれはめいそうをはじめ、出息しゅっそくにゅうそく(アーナパーナ)の修習しゅうじゅう(バーワナー)をして、遠離おんりから生まれた幸福とよろこびとともに、考えつつ、探求たんきゅうしつつ、しきかい(ルーパワチャラ)の第一禅定(ジャーナ)にたっしたのだった。このことを思い出したすぐその後で、かれは「ああ、あれが明智への道だ」と、わかったのである。
かれはさらに、よく考えた。「なぜ、わたしは、そのような喜びをおそれるべきであろうか? 純粋じゅんすい出離しゅつり(ネッカンマ)から生じた至福しふくで、官能の欲望からまったくはなれているのだ。わたしは確かに出息・入息(アーナパーナ)修習(バーワナー)の禅定の至福をおそれてはいない」
そのときまた、かれはさらに考えつづけた。「からだがこれほど衰弱すいじゃくしていては出息・入息(アーナパーナ)の修習(バーワナー)をして禅定の至福の達成をするのは不可能ふかのうだ。この実践を真剣しんけんにやる前に何か身のある食べ物か粗食そしょくでも、たとえばいたご飯とパンを食べて、衰弱したからだに活力を取り戻したほうがよさそうだ」
このように考えて、それからは菩薩は市場町セーナーニへ托鉢にき、毎朝まいあさ、食事した。そのようにすることによって衰え弱ったからだを維持いじした。二、三日後には体力たいりょく回復かいふくし、大人だいにんそう(マハープリサ)の特徴とくちょうも回復した。それは苦行(ドゥッカラチャリヤ)の実践以来いらいえていたものだったが、また、はっきりとあらわれたのである。

五群行者が菩薩から

菩薩の側近として仕えていた五行者ごぎょうじゃは、六年間、大きな希望をもって(どんな真理しんりであれ、菩薩がさとられたことはわれらにかち教えてくださるだろう)と、考えていた。しかしいまや、菩薩がどんな粗食であれ提供ていきょうされたものは食べるというやりかたにえたのを見てがっかりし「菩薩は放埒ほうらつになってしまわれた。たたかいを放棄ほうきして、贅沢ぜいたくもどられた」と、不平ふへい不満ふまんをこぼしたのである。
したがって、五行者はかれのもとをり、バーラーナシー近くの仙人せんにん集会しゅうかい所(イシパタナ)にある鹿野苑ろくやおん(鹿の園(ミガダーヤ))へ行った。側近の付き人だった五行者に見捨みすてられ、菩薩はウルヴェーラーの森に、ひとりで住んだ。五行者の存在そんざいは明智への偉大な闘いでたすけにはなったのだが、ひとりになったいま、かれは気落きおちしていなかったどころか、このほうが好都合こうつごうであった。かれはひときわ目につく孤独こどくを得た。その孤独は、尋常じんじょうならざる進歩しんぽの達成にみちびいてゆく力があり、精神統一をつよめるものであった。
菩薩が苦行をしていたのはすう日数か月ではなく、六年ものながいあいだ、連続れんぞくしてやっていたのである。あまりにきびしく徹底てっていした実践であったために、栄養の欠如で、かれの筋肉きんにくけんはしなびてちぢみ、血は干あがり、両目は落ちこんだ。体内からはっする熱で黄金色の皮膚はくろずんだ。かくして骨と皮しかえなくなっていた。ける骸骨がいこつであった。苦行の実践においてのどんな行者も凌駕りょうがすることはできなかった。そして、そうしたすべての困難こんなんと苦痛を体験したにもかかわらず、かれはけっしてそれをなげかなしむことがなかった。それどころか特異とくいだったのはかれの顔で、せこけているのにつねにほほえみをかべ、まるでどんな苦痛にも悩まされていないかのようであった。
そのつらいときのあいだ、かれの心に、次のような考えは決してかばなかった。「この長きにわたって、すべてのわたしの体力と能力のうりょく使つかってきた。そしてこの長きにわたってすべて耐え、もっとも過酷な痛みにも耐えた。しかし、一切いっさいを達成していないのだ! まさに、わたしがやったことは役に立やく たたない! わが宮殿にかえろう! カピラヴァットゥの王座おうざはわたしのもので、唯一ゆいいつ王位おうい継承けいしょう者だ。そしてわたしは大人相(マハープリサ)の特徴をもっているので転輪聖王てんりんじょうおうに確実になるであろう。宮殿で、わたしは美しいきさきヤソーダラーと、まだきているはは、父、八まん人の親族しんぞくと幸福にらすであろう。神のようにすべての贅沢を楽しむことができる。なぜ、わたしはこの森でとき無駄むだにしなければならないのか?」
かれのなかには安易あんいにみずから気ままで放埒な生活をもとめる考えなどは、これっぽっちもなかったのである。

19話へ続く

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南伝ブッダ年代記

Episode 18.  THE PRACTICE OF SEVERE AUSTERITIES

The Bodhisatta continued his quest for Enlightenment. He wandered round the Magadha Country; finally he arrived at the market town of Senāni, with the Uruvelā Forest nearby. When he inspected the forest, he found it to be a lovely and charming spot where the surroundings were quiet and peaceful. Within the forest, flowed the Nerañjarā River with its clean and clear currents; it had a pleasant and smooth sandy
bank, free of mud and mire. Near the forest, there was a village where forest dwelling ascetics could obtain alms-food easily. Having seen all these features, he thought: “Suitable indeed is this place for sons of good families to struggle for Nibbāna.” Accordingly, he resolved to settle down in the Uruvelā Forest, where for six long
years he engaged in an austere practice of ascetism to achieve his spiritual goal.

Encountering the Fearful and Dreadful Feelings

When the Bodhisatta stayed in the Uruvelā Forest, he thought:
“Indeed, it is hard to endure dwelling in a remote jungle-thicket; it is hard to achieve complete seclusion; and it is hard to enjoy living in isolation; for one who has no concentration, the jungles must have robbed his mind.”
“Suppose some ascetic or brahmin is not purified in mental, verbal, bodily action or in his livelihood, is malevolent, with thoughts of sensual desires, thoughts of ill-will, and thoughts of cruelty, is forgetful and not fully aware, unconcentrated and confused in mind, devoid of understanding—when some such an ascetic or brahmin resorts to a remote jungle-thicket abode in the forest, owing to those faults
he evokes unwholesome fear and dread.”
“But I do not resort to a remote jungle-thicket abode in the forest as one of those who are not free from those defects. I resort to a remote jungle-thicket abode in the forest as one of the noble ones who are free from these defects. Seeing in myself this freedom from such defects, I find great solace in living in the forest.”
During his stay there, the Bodhisatta also encountered such feelings as fear and dread: “On the special holy nights of the full-moon or new-moon days, and on the quarter-moon of the eighth, once I spent those nights in the most difficult and frightening orchards, in the jungle-thickets, and under a big tree, witnessing dreadful scenery, incidents and dreams, which made my hair stood on end. And when I dwelt there, a deer would approach me, or a peacock would knock off a branch, or the wind would rustle the leaves. Then I thought: ‘Certainly this is the fear and dread coming’.”
“At such moments, I felt eerie, but then a thought came up in my mind: ‘Why do I dwell in constant expectation of fear and dread? What if I subdue that fear and dread by keeping the posture I am in?’”
“Then, whenever I became frightened while walking, I subdued that fear and dread by keeping on walking, and not by standing, sitting, or lying down. Whenever I became frightened while standing, I subdued that fear and dread by keeping on standing, and not by walking, sitting, or lying down. Whenever I became frightened while sitting, I subdued that fear and dread by keeping on sitting, and not by walking,
standing, or lying down. Whenever I became frightened while lying, I subdued that fear and dread by keeping on lying, and not by walking, standing, or sitting.”

The Group of Five Ascetics (Pañcavaggiyā) Joined the Bodhisatta
It had been about twenty-nine years that Koṇḍañña—the youngest brahmin who foretold that the five-day-old baby Bodhisatta would someday become a Buddha—had been waiting for the day of renunciation of Prince Siddhattha. During that period, he always enquired whether the prince had renounced the world. He had grown quite old by now, but being convinced of his own prediction he was not discouraged waiting, even though his friends, the seven other brahmins, had passed away. Finally, the happy day came when he heard that the prince had gone forth on the full-moon day of Āsāḷha. He immediately approached the four sons of the other brahmins: Vappa, Bhaddiya, Mahānāma and Assaji. He persuaded them to renounce the world together and join the Bodhisatta.
Then, this group of five ascetics began to visit villages and market towns of several kingdoms to look for the Bodhisatta. They finally found him in the Uruvelā Forest. They waited upon him with strong hopes that in no long time, the Bodhisatta, who was engaged in the most severe form of austerities (dukkaracariya), would become a Buddha and would teach them the way to deliverance. While accompanying the Bodhisatta for six years in the Uruvelā Forest, they fulfilled their duties such as sweeping the surrounding place, fetching him hot and cold water, and so on.

The Three Similes of Fire-Making
One day, there arose spontaneously in the Bodhisatta’s mind three similes never heard before. “Just as a man who wants to make fire rubs a fire-kindling stick with
a wet, sappy piece of firewood lying in water, he cannot light a fire because of the wetness of the firewood and because it is lying in water; instead he will only reap weariness and disappointment. Even so, in this world there are ascetics and brahmins who are not detached from sensual desires and from sense-objects, both physically and mentally; although they feel painful, racking, and piercing feelings due to their striving, they will not realise the Path and Fruition, but will only become miserable.” This was the first simile which spontaneously occurred to him, never heard before. This simile signified the type of asceticism called saputtabhariyā-pabbajjā, i.e.
the form of asceticism whereby ascetics and brahmins still lead household lives, with wives and children. “Again, just as a man who wants to make fire rubs a fire-kindling
stick with a wet, sappy piece of firewood lying on land far from water, he still cannot light a fire because of the wetness of the firewood even though it is lying on dry land far from water; instead he will only reap weariness and disappointment. Even so, in this world there are ascetics and brahmins who are physically detached from sensual desires and from sense-objects, but not mentally. Although they feel painful, racking, and piercing feelings due to their striving, they will not realise the Path and Fruition, but will only become miserable.” This was the second simile which spontaneously
occurred to him, never heard before. This simile signified the type of asceticism called brāhmaṇadhammikā-pabbajjā, i.e. the form of asceticism whereby ascetics and brahmins, who have renounced the household lives, their wives and children, devote themselves to the wrong practice. “And again, just as a man who wants to make fire rubs a fire-kindling stick with a dry, sapless piece of firewood lying on land far from
water, he can light a fire and produce heat easily because of the dryness and saplessness of the firewood and because it is lying on dry land far from water. Even so, in this world there are ascetics and brahmins who are completely detached from sensual desires and from sense-objects, both physically and mentally; whether or not they feel painful, racking, and piercing feelings due to their striving, they will in either case realise the Path and Fruition when they follow the correct practice.” This was the third simile which spontaneously occurred to him, never heard before. This simile signified the type of asceticism called Bodhisatta-pabbajjā, practiced by the Bodhisatta himself.

The Practice of Developing the Appāṇaka Jhāna
In the Uruvelā Forest, the Bodhisatta struggled for Enlightenment by practising all of the most severe forms of austerities—called dukkaracariya—which were difficult for ordinary people to practise. He made a strong fourfold determination—called padhāna-viriya—thus: “Let only my skin remain! Let only my sinews remain! Let only my bones remain! Let my flesh and blood dry up!” By this determination, he would not recede even for a second, but would exert the highest effort in the practice.
Then, the following consideration occurred to him: “It would be good if I, with my teeth clenched and my tongue pressed against the palate, were to hold down, subdue and destroy my unwholesome mind with my wholesome mind.”
Thus, just as a strong man might seize a weaker man by the head or shoulders and press him down, even so did he, with his teeth clenched and his tongue pressed against the palate, hold down, subdue and destroy his unwholesome mind with his wholesome mind. While he struggled thus, sweat streamed forth trickling from his armpits.
At that time, instead of slackening in exertion, strenuous effort aroused in him very vigorously. His mindfulness was established and unperturbed. But due to the painful effort, his whole body was overwrought and uncalm. Although such painful feelings arose in Him, his willingness to pursue the struggle remained unflinching.
Then, the Bodhisatta thought thus: “What if I were to develop the appāṇaka jhāna by non-breathing meditation!”
Accordingly, with strenuous effort he stopped inhalation and exhalation through his mouth and nose. Having no chance to come in or to go out, the air escaped through the ears creating an exceedingly loud noise. Just as a blacksmith’s bellows being blown made an exceedingly loud noise, even so was the noise created by the air
coming from his ears.
Again, it occurred to him: “What if I were to develop the appāṇaka jhāna again!”
Accordingly, with strenuous effort he stopped inhalation and exhalation through his mouth, nose and ears. Having no chance to escape through the mouth, the nose, and the ears, the winds racked his head battering and piercing it. Just as if a strong man were to bore one’s head with a sharp and pointed drill, even so did the air rack
his head with great violence.
And again, it occurred to him: “What if I were to go on developing the appāṇaka jhāna!”
Accordingly, with strenuous effort he stopped inhalation and exhalation through his mouth, nose and ears as before. When he did so, terrible pains arose in his head, just as if a strong man put a tough leather strap around his head as head-band, and then that man twisted it with a stick to tighten it up.
Still again, it occurred to him: “What if I were still to go on developing the appāṇaka jhāna!”
Accordingly, with strenuous effort he stopped inhalation and exhalation through his mouth, nose and ears as before. Thereupon, violent winds carved up his belly, as if a clever butcher or his apprentice carves up an ox’s belly with a sharp knife, even so plentiful air pierced his belly.
Once more, it occurred to him: “What if I were still to go on developing the appāṇaka jhāna!”
Accordingly, with strenuous effort he stopped inhalation and exhalation through his mouth, nose and ears as before. When he did so, the whole of his body suffered from a violent burning ḍāharoga, ‘burning disease’, just as if two strong men had seized a weaker man by both arms and were roasting him over a pit of live coals.
Thus, each time he cultivated the appāṇaka jhāna harder and harder, his effort kept strenuously arising. So was his mindfulness established and unperturbed. However, due to the painful effort his whole body was overwrought and uncalm. Although such painful feelings arose in him, his willingness to pursue the struggle remained unflinching.
His whole body was afflicted with heat so intense that while he was walking, he fell down fainting into a sitting posture. At that time, the devas who saw him falling down in this manner said: “Samaṇa Gotama is dead.” Other devas said: “Samaṇa Gotama is not dead, but he is dying.” Still other devas said: “Samaṇa Gotama is neither dead nor dying. Samaṇa Gotama is an Arahant, a Worthy One, for such is the way in which an Arahant abides.”

The Practice of Taking Little Food
After he fainted for a few moments, his consciousness recovered. So did his energy and mindfulness. He then took long in-breaths and out-breaths for several times in order to make his body a bit fresh. Afterwards, he rose and went to his seat under a tree. At that moment, he thought: “What if I were to practise complete abstinence from food!”
Thereupon, some devas approached him and said: “O noble samaṇa, do not practise complete abstinence from food! If you entirely cut off food, we shall inject divine food through your pores; with that food you will be sustained.”
Having heard what the devas would do to him, the Bodhisatta thought: “If I decide not to take food at all, and these devas were to inject divine food through my pores, and I am sustained thereby, then I shall be lying.” So he refused them, saying: “There is no need.”
Then it occurred to him such thought: “It would be good if I take food little by little for one day’s meal, say, a handful of bean soup, or a handful of grain soup, or a handful of lentil soup, or a handful of pea soup!”
And as he did so, his body gradually became thinner and thinner and reached a state of extreme emaciation. Due to lack of nourishment, the joints in his body and limbs protruded like the joints of knot-grasses or bulrushes (the grass or creeper called Āsītika and Kāḷa). His hips became like a camel’s hooves, and the anus was depressed; his spine stood forth like a string of big beads; as the flesh between his ribs sunk down, the ribs jutted out like the rafters of an old house; his eyeballs sunk far down in their sockets, just like two stars seen in a deep well; the skin of his head shrivelled and withered as a green gourd shrivelled and withered in the wind and sun.
If he touched his belly’s skin, he would touch his backbone too; and if he touched his backbone, he would touch his belly’s skin, too; and so his belly’s skin cleaved to his backbone due to lack of sustenance. When he was squatting to pass excreta, just one or two hardened balls the size of betel nuts were discharged with difficulty; and the urine also did not come out at all as there was not enough liquid food in the belly to turn into urine; so weak was his body that in doing thus, he toppled and fell down on the very spot with his face downwards. If he rubbed his limbs with his hands in order to soothe his body, the body-hairs which were rotten at the root fell away from his body due to under-nourishment from the flesh and blood.
At that time, the people who saw him said: “Samaṇa Gotama is of black complexion.” Others said: “Samaṇa Gotama is not black, his complexion is brown.” Some others said: “Samaṇa Gotama is neither black nor brown, his complexion is tawny.” So much had the bright yellow colour of his complexion deteriorated through eating so little.
One day, when he was walking up and down, once again he fainted, falling down with his face downward due to his body being afflicted by unbearable heat and not having enough nourishment. The people residing near the Uruvelā Forest knew that the Bodhisatta had hardly eaten anything for many days. At that time, a shepherd boy happened to pass by the place where the Bodhisatta fell down. He surmised that the
Bodhisatta was about to die because he had fasted too much. The shepherd boy immediately approached him and tried to wake him up. After the Bodhisatta was conscious again, the shepherd boy put the Bodhisatta’s head on his lap and fed him with goat’s milk. The Bodhisatta conveyed his gratefulness to shepherd boy and blessed him for his health and happiness.

Subjugating the Ten Armies of Māra (Dasa Māra Senā)
After six years, the Bodhisatta came to a critical stage; he was almost on the verge of death. However, he was still intent on the highest exertion (padhāna) by repeatedly developing the appāṇaka jhāna in the Uruvelā Forest near the Nerañjarā River.
Reading this situation, Namuci immediately approached him with a pretense of goodwill and pity, saying: “O noble prince, now you have become very thin; you have lost the glory of your body; much deteriorated is your body; your death is coming very close; only one against one thousand is the chance of your remaining alive. Live, O oble prince! Life is the better way. If you live long, you can perform meritorious deeds. You can lead a holy life and make sacrificial rites, and thus much merit you could gain. What is the use of this austerity practice? Hard to bear is this old path! Difficult to achieve is your goal! And without certainty is this practice! Indeed, it is not feasible to tread along such a way!”
In replying to Māra’s enticement, the Bodhisatta boldly said thus: “O Evil One, you, who always bind up sentient beings in the cycle of saṁsāra, you who always hinder sentient beings from their liberation; you have come here only for your own benefit.”
“I do not need even an iota of merit which leads to the cycle of suffering. Māra, only to those who are yearning for such merit, may you allure them thus.”
“Firm is my faith (saddhā) that I shall surely realise Nibbāna soon. Exuberant is my perseverance (viriya), capable of burning into ash the grassy rubbish of defilements. Incomparable is my wisdom (paññā), able to crush the rocky mountain of dark ignorance (avijjā) into pieces. Great is my mindfulness (sati), which leads me to become a Buddha, free from heedlessness. Unshaken is my concentration (samādhi), like Mount Meru, which does not sway in a storm.”
“O Māra, this wind in my body, caused by my exertion in developing the appāṇaka jhāna, could dry up the streams of the Gaṅgā, Yamunā, Aciravatī, Sarabhū, and Mahī Rivers. So while I am thus striving, why would it not be capable of drying up the little blood in me, whose mind has been directed to Nibbāna?”
“If the blood dries up, then the bile, the phlegm, the urine and nutritive elements dry up; and so will the flesh be certainly exhausted. But although the blood, the bile, the phlegm, the urine and the flesh in me are all gone in this way, my mind becomes even clearer; so do my mindfulness, my wisdom, and my concentration become even more developed and steadfast.”
“Though I am experiencing the utmost pain, though my whole body has dried up to the point of almost emitting flames, and though I am thereby thoroughly exhausted, my mind is never deviated by sensual lust. O Māra, what you see is the purity and uprightness of the incomparable man, who has fulfilled the Perfections.”
“Your first army is sense-desires (kāma). The second is aversion for holy life (arati). The third is hunger and thirst (khuppīpāsā). The fourth is craving (taṇhā). The fifth is sloth and torpor (thīna-middha), while fear (bhīru) lines up as the sixth. Doubt (vicikicchā) is the seventh. The eighth is malice, paired with obstinacy (makkha-thambha). The ninth is gain ((lābha), fame (siloka), honour (sakkāra). The tenth is extolling of oneself (attukkaṁsana) and denigrating others (paravambhana).
“Namuci, these are your ten armies which, by force, prevent the liberation of humans, devas and brahmās from the rounds of suffering. None but the brave, who possess great faith, will, energy and wisdom, can conquer them. This victory will bring about the bliss of the Path, Fruition and Nibbāna.”
“I wear muñja grass as a token that I would not retreat. It will be shameful, ruinous, and disreputable if I have to withdraw from the battle and be defeated by you and remain alive in this world. It is far better to die in the battle field than to concede defeat to your force.”
“In this world, there are ascetics and brahmins who went to the battle field of kilesa, but without strength they are overpowered by your tenfold army. They are like those who, without light, happen to have entered into darkness. They neither know nor tread the path of the virtuous.”
“O Māra, though you have arrayed your armies on all side, not even the slightest fear I have. Here, I go forth to fight you. You shall not drive me from my position. Your armies—which the world, with all its gods, cannot conquer—I shall now destroy with my wisdom, just as a stone breaks a raw clay pot.”
On hearing the valiant words thus spoken by the Bodhisatta, Māra departed from that place, unable to utter a word in reply.

Considering Another Way to Enlightenment
In one afternoon, the Bodhisatta reflected that he revived and felt better—after fainting on the previous day—thanks to the goat’s milk given by the shepherd boy. Else, he might have died. When he was reflecting thus, a group of singing girls, on their way to the city, crossed nearby the place where he was meditating. While walking, they were singing: “…if we tuned the lute’s strings too loose, it would not
produce sound. If we tuned the strings too tight, they would break apart. If the strings were tuned neither too loose nor too tight, the lute would sound sweet.”
His heart was deeply moved by the verses sung by the girls. He had indulged too much in sensual pleasures with all the luxuries when he was still living in the palace. Just as if the lute’s strings were tuned too loose, even so Enlightenment could not be realised through self-indulgence. And also, he had practised asceticism so strictly
that he was nearly dead. Just as if the lute’s strings were tuned too tight, even so Enlightenment could not be attained through self-mortification.
It was about the first waxing day of Vesākha, 588 B.C., when it occurred to the Bodhisatta thus: “In their practice of austerity, the ascetics or brahmins of the past could have gone through only this much pain and hardship at most; they could not have gone through more hardship than what I am enduring. So is it the same with the ascetics or brahmins of the future, and those of the present. But by this strenuous practice of self-mortification, I have attained no distinction higher than the human state, worthy of the noble ones’ knowledge and vision. Might there be another way to Enlightenment?”
Then, he recollected that when he was child, on the auspicious day of “Royal Ploughing Festival” performed by his father King Suddhodana he had been left by his royal attendants. At that time, he sat under the cool shade of a rose-apple tree; he was quite secluded from sensual desires and from unwholesome things. Then, he developed the ānāpāna bhāvanā and attained the first rūpāvacara jhāna, accompanied with thinking and exploring, with happiness and pleasure born of seclusion. Thereupon, he recognised: “Well, this is the way to Enlightenment.”

He further reflected: “Why should I be afraid of such pleasure? It is a bliss which arises purely from renunciation (nekkhamma) and is entirely detached from sensual pleasures. I am certainly not afraid of the jhānic bliss of the ānāpāna bhāvanā”
Then again, he continued to reflect: “It is impossible to develop and get such attainment of the ānāpāna bhāvanā with a body so emaciated.
It would be good if I eat some solid food, coarse food, such as boiled rice and bread to revive my emaciated body before I endeavour in this practice.”
Having considered thus, from then on the Bodhisatta went on alms-round to the market town of Senāni and ate every morning. By doing so, he sustained his withered and emaciated body. Within two or three days, he regained his strength, and the major physical characteristics of a Mahāpurisa—which had disappeared at the time of
practising dukkaracariya—reappeared distinctly.

The Group of Five Ascetics Left the Bodhisatta
The five ascetics, who were attending upon the Bodhisatta for six years with great hopes, had been thinking: “Whatever truth which the Bodhisatta has realised, he will impart it to us.” But now, when they saw the Bodhisatta changing his method by taking whatever coarse food offered to him, they became disgusted with him, grumbling: “The Bodhisatta has become self-indulgent; he has given up the struggle and reverted to luxury.”
Thereafter, the five ascetics left him and went to Migadāya, the Deer Park, in Isipatana, near Bārāṇasī (Benares). When the attendant ascetics had abandoned him, the Bodhisatta lived a solitary life in the Uruvelā Forest. Though their presence during his great struggle was helpful, but he was not discouraged of being alone now; instead it was advantageous to him. He gained a considerable degree of solitude
conducive to attaining extraordinary progress and strengthening his mental concentration.
The Bodhisatta engaged in dukkaracariya not only for days or months, but for six long years consecutively. So severe and strict was his practice that his muscles and sinews shrivelled, his blood dried up, and his eyes sunk owing to lack of nourishment; and the golden colour of his skin was blackened owing to the heat produced in his body. Thus, what one could see was only bones and skin—a living skeleton. No other ascetics could surpass him in the practice of asceticism. And
although he experienced all those difficulties and pains, he never bewailed them. Even more extraordinary was his face, which was skinny but always looked smiling, as though he was not afflicted by any pain.
During that hard time, there had never come up to his mind such a thought: “This long have I exerted all my strength and ability; and this long have I endured all, even the severest pain, but omniscience have I not attained! Useless indeed what I have done! I shall go back to my palace! The throne of Kapilavatthu is mine as I am the only inheritor, and I will surely be a Universal Monarch as I have the characteristics of a Mahāpurisa. In the palace, I will live happily with my beautiful wife-princess Yasodharā, and also with my mother, father, and eighty thousand relatives, who are still alive. I can enjoy all the luxuries like a deva. Why should I waste my time here in the forest?” There had never been the slightest thought in him for an easy and self-indulging life.

To be continued

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南伝ブッダ年代記

アシン・クサラダンマ長老

1966年11月21日、インドネシア中部のジャワ州テマングン生まれ。中国系インドネシア人。テマングンは近くに3000メートル級の山々が聳え、山々に囲まれた小さな町。世界遺産のボロブドゥール寺院やディエン高原など観光地にも2,3時間で行ける比較的涼しい土地という。インドネシア・バンドゥンのパラヤンガン大学経済学部(経営学専攻)卒業後、首都ジャカルタのプラセトエイヤ・モレヤ経済ビジネス・スクールで財政学を修め、修士号を取得して卒業後、2年弱、民間企業勤務。1998年インドネシア・テーラワーダ(上座)仏教サンガで沙弥出家し、見習い僧に。

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ヴィパッサナー修習(観察冥想)実践、仏教の教理を学び、先輩僧指導の下、2000年までジャワ島、スマトラ島で布教に従事。同年11月、ミャンマーに渡り、チャンミ・イェッタ森林冥想センターで修行し、2001年、導師チャンミ・サヤドーのもとで比丘出家。同年、ミャンマー・ヤンゴンの国際仏教大学(ITBMU)入学、2004年首席(金メダル授与)卒業。同年以降2006年まで、バンディターラーマ冥想センター(ヤンゴン)、バンディターラーマ森林冥想センター(バゴー)でヴィパッサナー冥想修行。

奥田 昭則

1949年徳島県生まれ。日本テーラワーダ仏教協会会員。東京大学仏文科卒。毎日新聞記者として奈良、広島、神戸の各支局、大阪本社の社会部、学芸部、神戸支局編集委員などを経て大阪本社編集局編集委員。1982年の1年間米国の地方紙で研修遊学。2017年ミャンマーに渡り、比丘出家。

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著書にヴァイオリニスト五嶋みどり、五嶋龍の母の半生を描いた「母と神童」、単一生協では日本最大のコープこうべ創立80周年にともなう流通と協同の理念を追った「コープこうべ『再生21』と流通戦争」、新聞連載をもとにした梅原猛、今出川行雲、梅原賢一郎の各氏との共著 「横川の光 比叡山物語」。2021年、逝去。
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